広島市公文書館の国際交流

広島市公文書館長 中川 利國

1. 『不朽の島』とエリザ・R・シドモア

 みなさんはエリザ・R・シドモアが書いた『不朽の島』という作品をご存じだろうか。明治29年(1896年)、当時アメリカの人気雑誌「センチュリー」誌に掲載された、宮島の紀行文である。執筆者のシドモアは、わが国ではワシントンのポトマック河畔に植えられた桜を実現させた立役者として名が知られているが、『シドモア日本紀行』など多くの作品を残した紀行作家でもあった。

 私が公文書館長に就任した翌年の平成24年度、平成13年度から休刊していた「紀要」の復刊に取組んだ。公文書館の歴史資料の収集・保存・提供機能を通じて、地域史研究の振興に活かしたい、また公文書館の存在を地域に発信する場を確保したいという思いから、紀要の復刊は是非とも実現したい課題であった。

 しかしながら、たちまち執筆者探しが難航。長らく休刊していたことから、地元の大学や研究者との繋がりも希薄になっていたためである。半年かけて寄稿を依頼するネタを探していたところ、明治29年の地元紙『芸備日日新聞』に掲載された、米国の女性紀行作家が宮島を礼賛したという記事が目にとまった。インターネットで原文を探してみると、コーネル大学図書館によりこの紀行文が掲載された雑誌がデジタル公開されていた。当時の雑誌は写植の技術が確立していなかったため、写真をもとにした木版画のイラストが記事に添えられていたが、その木版画のもとになった写真も、スミソニアン協会自然史博物館の文化人類学資料館のインターネットサイトにあることがわかった。

 翻訳者の当てもなかったことから、自力での翻訳を余儀なくされたが、翻訳と資料解説の2編を書き上げ、他の執筆者の寄稿文とともに何とか復刊第1号は完成した。その後、このテーマについて館内はもとより、紀行文の舞台である宮島においても、県立広島大学宮島学センターや宮島歴史民俗資料館の協力を得て展示や講演を行うことができた。この翻訳が契機となり、図らずも近隣の他機関と連携した事業へと繋がったのである。

「紀行作家シドモア写真展-明治時代の宮島がよみがえる-」の様子

「紀行作家シドモア写真展-明治時代の宮島がよみがえる-」の様子

 紀要執筆後も資料調査を進めると、スミソニアンに残された宮島関係の写真は、日清戦争と日露戦争の時に撮られたことがわかった。両戦争の出兵基地であった広島には陸軍病院があり、多くの外国人捕虜も収容されて治療を受けていた。シドモアの宮島訪問は、これらの捕虜の状況を把握するためであろうと考えている。シドモアはこうした時代を背景に、日清戦争の準備で喧噪あふれる広島市内と対比して、古き良き日本の姿をとどめる静ひつな宮島を礼賛したのであった。

 シドモアが残した大量の写真は、日本を含むアジアや南米諸国など様々な地域を写したものであるが、一部に裏書されたメモが残されているものの撮影日時や場所等の詳しい記録も無いままに、スミソニアンに寄贈されたものである。スミソニアンの担当者にとっても、簡単な英文での説明であったが私の資料解説は驚きであったらしく、掲載や展示毎の使用許可においても非常に協力的であった。今夏、スミソニアンの資料館を訪れて写真資料の現物を見る機会を得た。担当者と意見交換をする中で、資料解説やその後の調査結果に関する、英文資料を送付することを依頼された。地球の反対側に残された資料の解題に微力ながらも寄与することができるとは、予想だにしなかった結末である。

2. 日系人による戦後復興支援

 もう一つの国際交流としては、広島と日系人に関するものがある。広島は移民県として知られ、歴史的に多くの海外移住者を送り出している。第二次世界大戦中は、米国やカナダの西海岸地域に住む日系人や日系人社会の指導者は強制収容されるなど苦難を余儀なくされたが、戦後の早い時期から、深刻な食料や物不足に苦しむ日本に対して多くの援助を行っている。当時の日系人社会では、或る者は衣服や食料を詰めた慰問小包を日本の親族に送り、また或る者は、各地に立ち上げられた支援組織を通じて、日本向けのララ物資のための援助物資や献金集めに奔走している。さらに、広島県人が多く在住するロサンゼルスとハワイでは、原爆で壊滅した広島の復興に対して、直接の資金援助を行うために新たな組織が立ち上げられ、復興資金が送られている。これらの援助は母子寮、養老院、児童図書館建設等に活用された。

ホノルルでの上映会にて(右から2人目が筆者)

ホノルルでの上映会にて(右から2人目が筆者)

 こうした日系人の歴史は、現在、平成29年度に刊行を予定する『被爆70年史』においても重要なテーマであるため、平成26年度から国内外で資料調査を進めている。こうした中、昭和25年に広島県知事と広島市長がMRA(道徳再武装運動)の世界大会参加のために欧米を訪問した際に、米国西海岸とハワイで上映した映画『平和記念都市ひろしま』が川崎市市民ミュージアムに所蔵されていることが分かった。もともとこの映画は、日系人をはじめとする海外からの復興支援を訴える目的で制作されたものであった。本館にも当時のシナリオ案や制作会議の記録が残されているが、肝心のフィルム自体が存在せず、国内で上映された痕跡もないことから、GHQの検閲により完成しなかったとも伝えられた「幻のフィルム」であった。フィルムには昭和23年の夏から約1年をかけて撮影された復興途上の広島の街と市民の姿が残されていた。

 被爆70周年記念事業の一つとして、所蔵機関や寄贈関係者のご厚意によりこの映画の複製を制作し、広島で2日間にわたり上映会やトークイベントを開催した。厳しい状況の中でも復興と向き合う当時の広島市民の姿は、映画を見た多くの市民の感動を呼んだ。今後も、広島の復興史を伝える貴重な資料として活用する予定である。

 さらに、ハワイで日系人による戦後復興支援の調査を行うなかで、現地の日系人の方々から、この映画を65年ぶりに現地で上映したいという要請を受けた。今夏、英語版の解説パンフレットを携えて、現地の方々の協力を得てホノルルで上映会を開催することができた。ハワイにおいても、こうした歴史は忘れられつつあるため、この映画は驚きをもって受け止められたのである。今後、日系人による復興支援に関する調査結果がまとまれば、現地の若い世代へもこうした歴史が継承される機会につなげていきたいと考えている。

3. ハワイに残された児童の書画

児童文化会館

児童文化会館

 こうしたハワイでの資料調査の中で、思わぬものも見つけることができた。地元のホノルル日本文化センター(JCCH)に、戦後の広島の子ども達が描いたクレヨン画や習字の作品が残されていることがわかった。爆心地に近い本川小学校の生徒が、昭和23年と27年にGHQの民間教育情報局(CIE)の民間人担当官ハワード・ベルに送ったものが、当時ハワイに在住していた遺族から寄贈されたのであった。

 彼は昭和22年1月に市内視察の一環として当時の本川国民学校を訪れ、焼け残った吹きさらしのコンクリート校舎の中で、まともに文房具も持たない児童が学習する姿に心打たれたのか、すぐに筆記用具や文房具代を寄付している。ハワード・ベルは、GHQの担当官であったが、同時に米国青少年赤十字東部地区長の肩書も持っていた。その後も、彼は米国の教会、小学校や青少年赤十字との交流の仲介を行い、多くの文房具等が本川小学校へ送られたのであった。ハワイに残された児童の書画は、こうしたハワード・ベルの支援に対して、本川小学校から感謝のしるしとして送られたものである。ちなみに彼は、昭和22年11月全国の小学校に対しても、米国青少年赤十字から学用品等が送られるように働きかけを行っている。

 昭和23年に市中央部に完成した児童文化会館は、古い建物を移築したものであったが本格的なオーケストラ・ボックスも備えたホールであり、様々な児童向けの催事が行われ、復興期の児童文化の拠点となった。彼はこの児童文化会館の建設に関しても、計画段階からその意義を認め、計画の推進に力を貸している。

 さらに、ハワード・ベルは、日系人からの支援資金をもとに建設された児童図書館に対して、米国の児童図書が寄贈される仲立ちも行っている。現在は「こども図書館」と名称を変えているが、今もベル・コレクションとして約700冊の児童図書が残されている。このハワイの本川小学校児童書画は、ベル・コレクションとともに、今年の12月から広島市内で展示を行う準備を進めている。

 現在、所蔵先の要請によりこれらの児童書画の高解像度のデジタルデータを作成しつつあり、また、ハワード・ベルに関してはGHQ関係資料にその足跡が残されていることから、この資料調査も継続して行っている。これらをまとめてハワイへ送ることにしており、先方でも資料解題作成の一助として活用されると期待している。

4.公文書館のこれから

 シドモアの『不朽の島』の件は、アメリカの二つの所蔵機関が資料をインターネット公開していたことが、実現のカギとなっている。インターネット公開の力をあらためて実感させられたのである。これが発端という訳ではないが、本館でもようやく目録情報や写真資料のインターネット公開に取組みはじめたところである。いつの日か世界中の公文書館がネットワークでつながる日も到来するであろう。本館の資料をもとに、第二の『不朽の島』のようなケースが海外で出現するのもそう遠くない話であろうか。

 広島市公文書館は、機関アーカイブス・地域アーカイブス機能の他、市史編さんの役割も担っている。昭和52年の公文書館設置の契機となったのは、政令指定都市移行にむけた周辺町村との広域合併において、各合併町村史を発行する事業の中で収集した大量の役場文書の存在である。市史編さん事業は、資料収集の大きな力となるだけでなく、公文書館の現状と課題を洗い出す好機ともなるのである。地方公文書館は機関アーカイブスに特化すべきとの議論もあるが、地方の置かれた厳しい現状と歴史をふまえると、より多様な姿が求められても良いと考えている。

 今回の市史編さんに関する海外資料調査をきっかけに、海外との交流の歴史の重要性をあらためて感じさせられたのであったが、全国のそれぞれの地域においても、独自の海外交流史があると思われる。海外との交流の歴史を探ることにより、自らの歴史を見直すヒントを見つけることができるかもしれない。

 現在の、いや未来の「広島」は、これにどう答えていくのであろうか。自問する日々である。