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明治以降の東照宮と家康

 江戸幕府が滅亡した後、江戸城紅葉山の東照宮や将軍家霊廟、日光東照宮などに対して、どのような措置が取られたのでしょうか。
 明治2年(1869)3月5日、上野及び紅葉山内の東照宮の処分について、神祇官(じんぎかん)から太政官(だじょうかん)の弁官(べんかん)宛てに上申書が提出されました。その内容は、4月17日に東京中の諸寺院で行われる東照宮祭祀は中止する事、一方で、民衆に上野東照宮(寛永寺に勧請された東照宮)への参詣を許可し、そこで祭典を行うようにすれば、人心安定の一助になるというものでした。同様に、下野日光山東照宮でも簡素な祭典を日光県へ命じるべきとも上申しています。当時、東照宮祭礼が人心鎮撫(じんしんちんぶ)の一つとして認識されていたことがわかります。なお、紅葉山にあった徳川廟所は、「皇居」に接近していたため、維新政府が撤去しました。

太政類典(だじょうるいてん) [請求番号: 太00135100]

 慶応3年(1867)から明治14年(1881)までの太政官日記及び日誌、公文録などから典例条規(先例・法令等)を採録・浄書し、制度、官制、官規、儀制等19部門に分類し、年代順に編集したもの

大日本帝国日光山絵図(だいにほんていこくにっこうさんえず) [請求番号: 174-0267]

 明治17年(1884)に刊行された日光のガイドマップ