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「徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―」関係年表

年月日 出来事
天文11年(1542)12月26日 三河国岡崎城内で誕生。幼名は竹千代。父は松平広忠(17歳)、母は於大の方(15歳)。
天文24年(1555)3月 今川義元の元で元服。松平次郎三郎元信と名乗る。
弘治3年(1557)
~永禄2年(1559)
祖父清康の勇名を慕い、「元康」と改名する。
永禄3年(1560)5月19日 桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に討たれる。
同年5月23日 今川勢が岡崎城を捨てて駿河へ去ったため、岡崎城へ入る。
永禄6年(1563)6月~10月 名前を家康と改める。
永禄9年(1566)12月29日 家康、徳川と改姓し、従五位下三河守に叙任される。
永禄12年(1569)5月 今川氏真との間に和睦が成立し、氏真は、義父である北条氏康の元へ送られる。懸川(掛川)城が開城し、戦国大名今川氏が滅亡する。
元亀元年(1570)6月28日 姉川の合戦。信長軍と連合して、浅井・朝倉連合軍を近江国姉川にて破る。
元亀3年(1572)12月22日 三方原の合戦。武田軍と戦い、鳥井忠広はじめ家臣の多くが討ち死にし、大敗を喫する。
天正3年(1575)5月21日 長篠の戦い。長篠城外設楽原で武田勝頼軍と織田・徳川連合軍が戦い、武田軍に壊滅的打撃を与える。
天正10年(1582)6月2日 本能寺の変。信長及び嫡子信忠が明智光秀に討たれる。家康は穴山信君とともに堺に居たが、信長死去の報を知り直ちに帰国の途に着いた。
天正12年(1584)4月9日 小牧・長久手の合戦。秀吉の甥羽柴秀次、池田恒興、森長可等が三河国に侵攻しようとしていた所を襲い、これを破る。池田恒興・森長可が戦死。
天正13年(1585)11月13日 家康重臣石川数正が妻子らを連れて大坂へ出奔し、秀吉に仕える。
天正14年(1586)10月26日 大坂に到着し、羽柴秀長の邸に宿泊する。その夜秀吉が家康の元をひそかに来訪する。
同年10月27日 大坂城に登城し、秀吉に謁した。
同年12月4日 居城を浜松城から駿府城へ移す。
天正17年(1589)8月 秀吉の仲介で、家康嫡男信康の遺児・登久姫が信濃国松本城主小笠原秀政に嫁ぐ。
天正18年(1690)7月 秀吉から関東への転封を命じられる。同年8月、江戸入城。
慶長5年(1600)9月15日 関ヶ原の合戦。小早川秀秋が東軍に応じた事等で、西軍が大敗する。
同年9月27日 大坂城へ入り、豊臣秀頼と会う。その後西丸へ入り、秀忠を二の丸へ入れる。
慶長7年(1602)6月24日 江戸城中に文庫を造営し、金沢文庫の書籍を移し、下野足利学校の竜派禅珠(寒松)に目録作成を命じる。
慶長8年(1603)2月12日 伏見城へ勅使勧修寺光豊を迎え、家康は征夷大将軍・右大臣、源氏長者、淳和・奨学院両別当に任じられ、牛車・兵仗が許される。
同年4月22日 豊臣秀頼が内大臣に任じられる。
同年7月28日 千姫が伏見城より大坂城へ入り、豊臣秀頼(11歳)へ嫁ぐ。
慶長10年(1605)4月16日 家康は征夷大将軍を辞する。世子秀忠が征夷大将軍・内大臣に任じられ、正二位に叙され、淳和院別当に補され、牛車・兵仗を許される。奨学院及び源氏長者は家康が保持したままであった。
慶長12年(1607)2月15日 家康、上野国小幡城主永井直勝を通じて、細川幽斎へ室町幕府の古式を尋ね、幽斎よりその旧記が進呈される。
同年3月8日 家康、駿府で林信勝を引見する、剃髪を命じて、号を道春とする。
慶長14年(1609)7月25日 家康は、オランダ国王からの貿易の求めに対して返書を送り、渡航のための朱印を与える。
慶長15年(1610)9月5日 家康、鎌倉五山及び駿河清見寺・臨済寺等の僧に命じて、群書治要(ぐんしょちよう)を書写させる。
慶長16年(1611)3月28日 家康、豊臣秀頼を二条城に迎えて会見を行う。
慶長18年(1613)6月16日 家康、公家衆法度及び紫衣勅許について定める。
慶長19年(1614)4月16日 豊臣秀頼、京都方広寺大仏殿の鐘を鋳造する。
同年5月 秀頼、方広寺大仏殿供養を挙行しようとし、その期日等を片桐且元を通じて、家康に尋ねる。
同年8月 本多正純・金地院崇伝、片桐且元へ大仏鐘銘等の事で家康に弁明するため、駿府へ赴く事を勧める。
同年10月 家康、金地院崇伝・林羅山に命じて、五山の僧より優れた者を各10人選び、南禅寺金地院にて古記録の謄写(とうしゃ)を命じる。
同年11月中旬 大坂冬の陣。徳川・豊臣両軍が激突。
同年12月19日 本多正純・阿茶局、京極忠高の陣へ派遣し、大坂城からの使者である忠高母常高院に再び会い、秀頼が家康の条件に同意し、和睦する事を約定する。翌20日に、茶臼山の家康の本陣の陣にて、誓詞を交換する。
慶長20年(1615)3月21日 家康、林羅山に銅製活字版で、大蔵一覧(だいぞういちらん)を印刷することを命じる。
同年5月6日 大坂夏の陣。徳川・豊臣両軍激突。
同年5月8日 大坂城落城。秀頼・淀殿は自害。
同年7月7日 家康、先に金地院崇伝に諸法度の案を制定するよう命じる。秀忠、この日諸大名を伏見城に召し、武家諸法度を発布する。
元和元年(1615)7月17日 秀忠、二条城へ登城する。禁中並公家中諸法度を定め、前関白二条昭実、家康、秀忠がこれに連署する。
同年12月15日 駿府への帰途、隠居所を三島の伊豆泉頭の地に決め、その地を検分し、翌年より造営を始める事を命じる。
元和2年(1616)正月12日 家康、伊豆泉頭の隠居所造営を中止する。
同年正月19日 家康、金地院崇伝・林羅山に命じて、群書治要の板行を命じる。
同年正月21日 駿河国田中にて鷹狩を行う。その夜、急に発病する。秀忠、安藤重信をただちに駿府へ派遣する。
同年3月27日 家康、太政大臣に任じられる。
同年4月2日 家康、本多正純及び天海、金地院崇伝を召して、遺言を伝える。
同年4月11日 家康、林羅山を召して、遺命を伝える。羅山、後に秀忠から駿河文庫の書籍の処置について命じられる。
同年4月17日 家康、死去。享年75。
同年4月19日 幕府、久能山に仮殿を造営し、神龍院梵舜に家康を祀らせる。
同年6月11日 幕府、板倉重昌・南光坊天海・林永喜を朝廷へ派遣し、家康の神号を奏請させる。
同年10月26日 幕府、南光坊天海を日光山に派遣し、東照大権現の廟を造営させ、縄張りを行う。また本多正純・藤堂高虎を作事奉行とする。
元和4年(1618)3月 秀忠が江戸城内紅葉山に東照社を造営。
正保2年(1645)11月 東照社に宮号が与えられ、日光東照宮となる。
正保3年(1646)3月10日 家光の奏請により、東照宮に例幣使が派遣される。同時に、伊勢神宮への例幣使が再興される。