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大坂冬の陣・夏の陣

 方広寺の鐘銘に端を発した徳川方と豊臣方の対決はもはや避けられない状態になっていました。家康は慶長19年(1614)9月から10月にかけて諸大名に大坂への出陣を命じ、豊臣方も兵粮を大坂城へ入れ、さらに牢人たちが続々と入城し、兵は10万人にも達したと言われています。
 11月半ば過ぎには20万人とも言われる徳川方の軍勢が大坂城を取り囲み、ここに大坂冬の陣が始まりました。豊臣方は籠城(ろうじょう)戦を挑みます。真田左衛門佐信繁(のぶしげ、幸村)は、出城(真田丸)を築き、徳川方の軍勢の多くを撃退しました。
 大坂冬の陣は12月19日に和睦が成立します。しかし、これは一時的なものでしかありませんでした。翌年3月には、京都所司代の板倉勝重から、豊臣方の不穏な動き(大坂城の修築や牢人の増加など)が伝えられます。
 慶長20年4月25日、大坂夏の陣が始まります。豊臣方は真田隊が家康の本陣に突入し、一時徳川方を混乱に陥れますが、押し寄せる徳川方の軍勢を防ぐことはできず、5月8日、秀頼と淀殿は自害しました。ここに大坂夏の陣は終結しました。

当代記(とうだいき) [請求番号: 150-0049]

 戦国から江戸時代初頭の国内の政治や経済等の動きを詳細に記した書

幸島若狭大坂物語(こうじまわかさおおさかものがたり) [請求番号: 168-0243]

 大坂の陣について記録した資料の一つ

舜旧記(しゅんきゅうき) [請求番号: 165-0092]

 神道家で神龍院の住持、豊国神社の社僧である梵舜(ぼんしゅん、1553~1632)の日記

舜旧記(しゅんきゅうき) [請求番号: 165-0093]

 神道家で神龍院の住持、豊国神社の社僧である梵舜(ぼんしゅん、1553~1632)の日記

武功雑記(ぶこうざっき) [請求番号: 170-0095]

 肥前平戸藩第4代藩主松浦鎮信(まつらしげのぶ、1622-1703) 著