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長篠の戦い

 武田勝頼は天正2年(1574)正月に織田方の明知城(岐阜県恵那市)、5月には、家康方の高天神城(静岡県掛川市)を次々と攻略、さらに翌天正3年にも攻勢を強め、徳川方に奪われていた長篠城(愛知県新城市)を奪還するため、同年5月、同城を包囲します。これに対し、信長は13日に岐阜を発し、極楽寺山(ごくらくじやま)に本陣を、家康は高松山(たかまつやま)に本陣を構え、同月21日、ついに合戦が始まりました。織田・徳川連合軍は、鉄砲隊と馬防柵により、武田軍に壊滅的な打撃を与える事に成功したと言われており、合戦は織田・徳川方の勝利に終わりました。
 その後も武田家とは高天神城を巡る攻防で戦いが続きますが、天正10年(1582)3月、勝頼が天目山(てんもくざん、山梨県甲州市)で自害し、武田家は滅亡します。

当代記(とうだいき) [請求番号: 150-0049]

 戦国から江戸時代初頭の国内の政治や経済等の動きを詳細に記した書

聞見集(ぶんけんしゅう) [請求番号: 170-0188]

 川越藩家老石川昌隆(正西)が万治3年(1660)に著した書