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三方原の戦い

 今川義元の死後、今川・武田・北条の三国同盟がほころび、武田信玄は今川氏の領国駿河国へ侵攻、これに呼応して、家康もまた今川領国の遠江国への侵攻を開始しました。永禄12年(1569)5月、今川氏と徳川氏の間に和睦が成立し、氏真が籠城していた掛川城が開城します。氏真は義父である北条氏康の元へ赴き、ここに戦国大名としての今川氏は滅亡しました。一方、信玄は駿河への侵攻が北条氏康に阻まれるなどしたため、遠江へも軍勢を派遣し、武田と徳川は対立していくことになります。
 元亀2年(1571)10月には、信玄と対立していた北条氏康が死去し、信玄の娘婿であった氏政が北条氏の家督を嗣いだことで、武田・北条間で再び同盟が結ばれます。信玄はこれを契機に、元亀3年10月、遠江国への侵攻を開始します。このとき行われた戦いの一つが、世に言う、三方原(みかたがはら)の戦いです。 浜松城に居た家康は、織田方からの味方合わせて1万余りの軍勢を率い、およそ2万5千の武田軍に討って出たものの、多くの家臣が討ち死にし、大敗を喫してしまいました。
 信玄は翌元亀4年(天正元年・1573)には三河国まで侵攻しますが、病が悪化したため、甲府ヘ戻ることになり、その途中、4月12日に死去します。そして、この後、信長・家康は信玄の跡を嗣いだ武田勝頼(かつより)と激しい戦いを繰り広げていくことになります。

当代記(とうだいき) [請求番号: 150-0049]

 戦国から江戸時代初頭の国内の政治や経済等の動きを詳細に記した書

東武談叢(とうぶだんそう) [請求番号: 167-0147]

 資料には信玄の家康評が記されている

大三川志(だいみかわし) [請求番号: 特043-0002]

 陸奥国守山藩主松平頼寛(まつだいらよりひろ、1703~1763) が晩年に記した徳川創業史