大黒屋光太夫の漂流記録 ③

光太夫らのペテルブルクでの体験と皇帝エカテリーナ二世への謁見

37 北槎聞略

請求番号185-0579
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 光太夫らは寛政3年(1791)1月、キリル=ラクスマンに伴われ、首都ペテルブルクへ赴き、政府要人へ帰国を訴え出ることになりました。しかしこの直前、九右衛門が病死し、帰国を希望する漂流民は3名となりました。
 ペテルブルク到着からしばらくして、ロシア皇帝の離宮があるツァールスコエ・セローにキリルと共に向かい、寛政3年5月28日(一説には6月28日)光太夫はエカテリーナ二世に謁見しました。光太夫は女帝からの種々の質問に答え、帰国願を言上しました。
 光太夫は女帝エカテリーナ二世と謁見した際、女帝の右手甲に、3回唇を軽くふれ、拝礼します。女帝は光太夫の帰国願を見て「ベンヤシコ」(ベドニャーシカ)と言い、その後に「是ハ憐れむべしという語なり」という説明が付してあります。女帝が、光太夫らの境遇を嘆いたことがわかります。
 画像の2枚目はヨーロッパの図、3枚目はペテルブルクの図。どちらも光太夫が持ち帰った地図を模写したものです。
 画像の4枚目はロシアで手に入れた顕微鏡の図です。

大黒屋光太夫の漂流記録 ④

エカテリーナ号での日本帰国

38 北槎聞略

請求番号185-0579
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 寛政3年10月20日、光太夫は再び宮中に召され、エカテリーナ二世から直接煙草入れを賜りました。この時すでに女帝は彼らを日本へ送還、さらに日本へ使節を送るようイルクーツク総督へ勅命を下していました。
 寛政4年5月20日、キリルとともにイルクーツクを出発し、8月にオホーツクへ到着。そして9月13日、キリルの子息・アダム=ラクスマンを遣日使節としてエカテリーナ号は日本へ向けて出港し、10月9日(陰暦で9月5日)、根室に到着しました。およそ10年にも及ぶ漂流でした。しかし根室到着後、小市が死去し、日本生還を果たしたのは、光太夫と磯吉の2名でした。
 寛政5年9月、第11代将軍徳川家斉の上覧のもと、吹上御庭で光太夫と磯吉への取り調べが行われました。蘭学者の桂川甫周が命を受け、光太夫らに多岐にわたって質問を行いました。
 画像資料にはロシアで使用されていた金銀銅貨の図や光太夫らから聞き取りしたロシア語が記録されています。