欧米船漂着 ①
文政元年(1818)5月14日、久里浜沖へのイギリス船来航
20 諳危利亜船相州浦賀浜渡来始末書写(視聴草所収)
請求番号217-0034
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船頭の平坂栄三郎から怪しい船を見かけたとの報告を受けると、浦賀番所はすぐさま船を出し、問屋(干鰯問屋か)もその後確認に行ったところ、久里浜沖にイギリス船が碇泊していました。浦賀役人はすぐさま江戸へ連絡。当時浦賀警衛を担っていた会津藩へも飛脚を飛ばし、会津藩兵船、浦賀役所番船などで周囲を包囲します。
「視聴草」にはイギリス人と浦賀番所役人のやり取りの記録が詳細に記録されています。画像の3枚目には乗組員が、4枚目には碇泊していた船が描かれています。
通訳のため天文方も派遣され、イギリスとの交易はできない旨を伝えると、了解したようで、すぐに出航しました。
欧米船漂着 ②
文久2年(1862)10月2日、常陸国鹿嶋郡東下村高野浦(現在の茨城県神栖市)へのアメリカ船漂着
21 松下大学知行所常州東下村沖合北亜墨利加船漂着之儀ニ付申上候書付
請求番号多016278
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碇泊しているアメリカ船が見つかった時、船はすでに破損している状態だったようです。波が穏やかになったため、乗組員を上陸させ、東下村にある新善光寺へ連行します。その後、到着した外国奉行配下の役人等は、新善光寺境内に竹で囲いを設置し、漂着民及び漂着船の周囲の警固を固めました。
資料には、漂流船は「新約基」(ニューヨーク)を出航し、ボストンやワシントン、メキシコなどに立ち寄り商売をしてきた商船・運送船のようだと記されています。