大黒屋光太夫の漂流記録 ①

天明2年(1782)12月、伊勢国白子村(現在の三重県鈴鹿市白子)の百姓彦兵衛の持船・神昌丸(船頭大黒屋光太夫ら乗組員17名)のアムチトカ島への漂流

35 北槎聞略

請求番号185-0579
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 漂流からおよそ半年。神昌丸で最初の死者が出ました。南若松村(現在の三重県鈴鹿市)の水主かこ(「水手」)幾八でした。彼は腹痛と下痢に悩まされており、7月15日の夜、息を引き取りました。他の乗組員たちも、「雀目」(鳥目)になってしまい、夜に目が見えなくなっていました。
 幾八が亡くなった頃から、乗組員たちの様子も変わってきました。退屈しのぎに博打をしても、「かちたるもまけたるも船中まての事」であり、勝っても負けても何とも思わなくなり、ただ退屈を増すだけでした。また最初はお互いを慰め合い、助け合っていましたが、徐々に自分勝手な行動が目立ち、「船頭親父」(船中の賄いを担当した者)の言うことも聞かなくなっていったようです。
 天明5年に迎えに来たロシア船は接岸に失敗し、大破してしまいますが、光太夫らは協力して船を建造。天明7年7月、アムトチカ島を出航しました。