うつろ舟の女

元禄11年(1698)5月、三河国渥美郡吉田浦(現在の愛知県豊橋市)への「ウツホ舟」着岸

22 改正甘露草

請求番号150-0121
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 漂着した船は舳先へさきに男の首をさらしていたといいます。舟の中には女が一人。詮議しようにも言葉が通じないため、長崎へ送還したようです。

うつろ舟の「蛮女」

享和3年(1803)2月22日、常陸国への漂着

23 うつろ舟の蛮女(弘賢随筆所収)

請求番号特095-0004
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 舟が漂着した「はらやどり」という浜は、現在の茨城県神栖市波崎舎利浜しゃりはまではないかと言われています。その舟は香盒こうごう(香合、香を入れる蓋つきの容器)のような形で、長さが3間(約5.5メートル)あり、上はガラス障子で、底は鉄板がはめられていたといいます。中には水と食糧、そして一人の女性が乗っており、二尺四方(60センチ四方)の箱を持っていました。
 地元の古老の話では、これは蛮国の王の娘で箱の中はおそらくは密通した男の首だろうとのことでした。
 幕府や領主へこの事を申し上げれば、長崎への輸送など諸費用がとてもかかるため、再び女を舟に乗せて沖へ引き出したとあります。舟に書かれた記号は、浦賀に来航したイギリス船にも書かれていたようで、この作者は蛮女はイギリスかオランダ、アメリカ等の王の娘ではないかと記しています。