無人島「鳥島」への漂着 ①

享保4年(1719)11月、遠江国荒井(新居)(現在の静岡県湖西市)の廻船(船頭左平次ら12名)の漂流と伊豆諸島の鳥島での体験

6 遠江国荒居甚八等無人島漂流一件(漂流雑記所収)

請求番号185-0134
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 享保5年正月の鳥島漂着後、3年ほどは12名全員が生存していたようですが、それから10年の間に次々と亡くなったと生き延びた甚八は語っています。死因は衰弱死か食べ物が合わなかったことが理由だったか、体が腫れて亡くなったようです。
 また衣類については、主食としていた「大鳥」の皮と羽毛を転用していたと述べています。この「大鳥」とはアホウドリを指します。
 およそ20年後の元文4年(1739)、甚八・仁三郎・平三郎の3名が生き延びていた鳥島に、江戸堀江町の宮本善八船(船頭富蔵ら17名)が漂着しました。
 新たに漂着した富蔵らは、甚八らの姿を見て仰天し逃げ出してしまいます。それもそのはず。20年間、髪も切らず髭も剃っておらず、常に日に当たっていたことから肌も赤黒く、さらに鳥の皮を着ており、とても人には見えない風貌でした。
 幸いにも、富蔵らの船には小船があり、甚八ら3名と富蔵ら17名の計20名はその小船に乗って、同年5月1日に八丈島へ着くことができました。

無人島「鳥島」への漂着 ②

寛政元年(1789)12月、日向国諸県もろかた志布志しぶし浦(現在の鹿児島県志布志市)の住吉丸(船主三右衛門ら6名)の鳥島での体験

7 無人嶋談話

請求番号185-0224
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 寛政2年正月、三右衛門らが鳥島に漂着すると、驚いたことに、土佐国の松屋儀七船の乗組員・長平と肥前国金左衛門船の船頭・儀三郎ら11名が生活していました。三右衛門ら6名が加わり、鳥島の居住者は18名となりました。
 三右衛門らは6年の歳月をかけて船を造り、寛政9年6月13日、八丈島の南方にある青ヶ島にたどりつきました。
 画像は住吉丸の乗組員から審問した薩摩藩藩医で本草学者の曽槃そうはんが書いた鳥島全図。彼は過去の鳥島漂着記録も参考に、「怪鳥」(アホウドリのことか)や洞穴の場所など詳細に記しています。