中国漂流 ①

寛永21年(1644)4月、越前国三国浦新保村(現在の福井県坂井市三国町新保)の商人・竹内藤右衛門ら58名の韃靼だったん国(清国)への漂流と体験

1 韃靼漂流記(文鳳堂雑纂ぶんぽうどうざっさん所収)

請求番号217-0036
  1. 1
  2. 2
▲写真をクリックすると、拡大画像が表示されます。

 船が漂着したのは現在のロシア領ポシェト湾付近であったと言われています。乗組員のうち、生き残った15名は韃靼の都・盛京せいけい(現在の瀋陽しんよう)に連行され、北京へ送られます。その後、正保3年(1646)6月に生き残った15名全員が帰国しました。
 北京へ連行される際、彼らは大きな城壁を通過します。彼らはそれを「韃靼と大明との境に石垣を築申候、万里有之よし、高サ十弐三間程」だったと言います。これこそ万里の長城そのものでした。
 画像の2枚目は「韃靼国」(清国)と「北京」(明国)での数字の呼び方を記録した部分です。
 当時中国では、韃靼国が明国を破り、北京への遷都を進めている最中でした。彼らは図らずも、歴史の目撃者となったのです。

2 越前三国浦竹内藤右衛門等韃靼国漂流言上書上(落葉集所収)

請求番号217-0029
  1. 1
  2. 2
▲写真をクリックすると、拡大画像が表示されます。

 「韃靼国之大王」の名は「てうてん」と言い、8歳と記しています。これは清国第3代皇帝順治帝じゅんちていのことです。「てうてん」と記したのは、朝廷(中国音で「チャウ・テン」と読む)という言葉を皇帝の名と勘違いしたからと言われています。当時、清の宮廷では皇帝を名前の代わりに「朝廷」と呼んでいました。

中国漂流 ②

宝暦7年(1757)9月、志摩国英虞あご郡布施田浦(現在の三重県志摩市布施田)の船頭小平治ら6名の台湾への漂流と体験

3 台湾漂流記

請求番号185-0185
  1. 1
▲写真をクリックすると、拡大画像が表示されます。

 小平治らが乗る若市丸は、志摩国大王崎で大風雨に吹き流され、漂流してしまいます。
 漂流から50日ほど経過し、周囲にも島らしきものはなく、また雨も降らず20日間もの間、彼らは水を飲まずに過ごしていました。積荷の白砂糖で喉を潤したり、寒さのためか、船の金具に霜や露が付いたため、それを舐めて(「ねふり」)、喉を潤したと記されています。
 おおよそ150日の漂流の後、台湾に上陸。宝暦9年4月25日に長崎へ帰着しました。