中国漂流 ①
寛永21年(1644)4月、越前国三国浦新保村(現在の福井県坂井市三国町新保)の商人・竹内藤右衛門ら58名の韃靼国(清国)への漂流と体験
1 韃靼漂流記(文鳳堂雑纂所収)
船が漂着したのは現在のロシア領ポシェト湾付近であったと言われています。乗組員のうち、生き残った15名は韃靼の都・盛京(現在の瀋陽)に連行され、北京へ送られます。その後、正保3年(1646)6月に生き残った15名全員が帰国しました。
北京へ連行される際、彼らは大きな城壁を通過します。彼らはそれを「韃靼と大明との境に石垣を築申候、万里有之よし、高サ十弐三間程」だったと言います。これこそ万里の長城そのものでした。
画像の2枚目は「韃靼国」(清国)と「北京」(明国)での数字の呼び方を記録した部分です。
当時中国では、韃靼国が明国を破り、北京への遷都を進めている最中でした。彼らは図らずも、歴史の目撃者となったのです。
2 越前三国浦竹内藤右衛門等韃靼国漂流言上書上(落葉集所収)
「韃靼国之大王」の名は「てうてん」と言い、8歳と記しています。これは清国第3代皇帝順治帝のことです。「てうてん」と記したのは、朝廷(中国音で「チャウ・テン」と読む)という言葉を皇帝の名と勘違いしたからと言われています。当時、清の宮廷では皇帝を名前の代わりに「朝廷」と呼んでいました。