中国からの漂着 ②

安永9年(1780)4月、安房国朝夷あさい郡朝夷村千倉ちくら浦(現在の千葉県南房総市)への唐船漂着

18 続淡海

請求番号150-0094
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 5月1日、周辺の村々は海上の取締りをする浦賀番所、南朝夷村に領地を持つ岩槻いわつき藩の江戸屋敷、幕府代官所等へ連絡する一方、乗組員の救助作業に当たりました。
 岩槻藩は、物頭ものがしら兼郡奉行の児玉南柯なんかを派遣します。5月9日に現地に到着した児玉は、漂着船の船主沈敬瞻と会見し事情聴取しました。彼は信牌を所持していたため、正規の貿易船であることが証明され、長崎へ送られることになりました。
 画像資料は漂着船である元順丸が積載していた荷物目録。白砂糖と氷砂糖を合計すると、なんと275,000斤(165トン)にも達します。

19 游房筆語

請求番号185-0201
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 儒者の伊東藍田らんでんは千倉浦に漂着船があることを知ると、江戸永代橋から舟を雇い、すぐに現地に向かいます。代官稲垣の部下の手引きで、変装して漂流民の仮住まい小屋へ近づき、沈敬瞻(資料では「天協」)らとの筆談に成功します。翌日も小屋へ近づき筆談を試みますが、稲垣の別の部下に見つかり、あえなく江戸へ帰還させられることに。まさに野次馬が記した体験談といえるでしょう。
 画像の2枚目は同資料に収められた清国人の図、3枚目は漂着した元順丸の図です。
 6月30日、漂着民は4船に分乗して長崎へ向かいました。