幕府による漂流船処遇
異国船の取扱いに関する法令の発布
- 1
- 2
- 3
▲写真をクリックすると、拡大画像が表示されます。
18世紀後半に入ると、日本近海に出没する異国船の数が非常に多くなりました。寛政3年(1791)の法令の内容は、異国船が漂着していた場合、適切な処置を行い、船具等は取り上げておき、長崎へ送るよう命じたものでした。一方、こちらの指示に従わない異国船の場合は、船は打ち砕き、人は切り捨てるか、召し捕らえるなどするようにも指示しています。
後に幕府は、文化元年(1804)9月にロシアの外交官レザノフが漂流民送還と通商を求め長崎に来訪したことなどを受け、同3年正月26日に新たに法令を発布し、渡来の異国船についてはなるべく穏便に帰帆させるよう諸大名に諭し、特に漂流船には薪水を給与することに改めました。
異国船打払令
異国船の出現と襲撃
25 異国船渡来之節水野出羽守御渡御書付(天保雑記所収)
請求番号150-0150
- 1
- 2
▲写真をクリックすると、拡大画像が表示されます。
幕府に通商を拒否されたレザノフが、ロシアへの帰国途中、文化3年(1806)9月から翌年4月にかけて蝦夷地の幕府の拠点を襲撃しました。
さらに文化5年8月には、長崎へイギリス軍艦フェートン号が侵入。当時イギリスはオランダと戦争状態にあり、オランダ船の拿捕をねらっての侵入でしたが、オランダ船は停泊しておらず、長崎奉行に食糧や薪を要求した後退去するという、いわゆる「フェートン号事件」が起きました。
薪水を与えて異国と事を荒立てない方針の文化3年令を維持していた幕府でしたが、こうした異国の行動を受け、文政8年(1825)2月、異国船打払令を発布しました。
この法令では、日本沿海に近づく異国船に対し、一切無差別に砲撃等を加えて、「無二念」に異国船を全て打ち払うことを定めています。