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英国留学生に手当の先払いを願う(多聞櫓文書)

[請求番号 多703851]

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川路寛堂(かわじかんどう)(1844-1927)

慶応2年(1866)、幕府は、幕臣の子弟を英国に派遣し各分野の学術を学ばせようと、留学希望者を募集。選抜試験の末、12歳から22歳までの子弟12名を決定しました。加えてその監督役として、川路太郎(歩兵頭並23歳)と中村敬輔(儒者35歳)の二人を「取締」に任命。計14名の留学生は、同年10月25日(太陽暦では12月1日)に横浜を出航しました。

展示資料の「英国留学生出立以前御手当之儀申上候書付」は、出国前に川路・中村両名から老中稲葉美濃守にあてた上申書。その内容は「留学生にはそれぞれ月30両の御手当が下されることになっていますが、出国前には衣服その他を揃えなければならず、その支払いは容易ではありせん。なにとぞ7ヶ月分の御手当を先払いしていただきたい」というもの。役職のある自分たちはともかく、次男や三男の身ではとても自前で買い揃えることはできないとも述べています。

留学生一行が帰国したのは、すでに幕府が倒れた慶応4年(1868)の7月。留学生の中には、のちに文部大臣となった外山捨八(正一)、外務大臣を務めた林董三郎(董)、あるいは理化学研究所の初代所長となった箕作大六(菊池大麓)などがいる一方で、若くして亡くなった人や消息不明になった人もいます。若き留学生たちのその後の人生は、さまざまでした。


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