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川路聖謨(かわじとしあきら)(1801-68)
一橋慶喜を14代将軍にしようとする“一橋派”に属していた川路聖謨は、徳川慶福(のちの家茂)を擁立する大老井伊直弼に疎まれ、安政5年(1858)5月に勘定奉行から西丸留守居に左遷。さらに翌6年8月、隠居・差控(さしひかえ)を命じられました。
家督を孫の太郎に継がせ、4年近く自宅に籠もり謹慎の日々を送っていた川路は、文久3年(1863)年5月、外国奉行に任命されます。攘夷運動の高まり、生麦事件の賠償問題など幕府は深刻な問題を抱え、対外交渉の経験に富む川路の力を活かそうとしたのでした。しかし幕府をとりまく環境は厳しく、年齢(63歳)による身体の衰えも重なって十分に職務を果たせないと実感した川路は、将軍家茂に諫言を呈したのち、外国奉行の俸給を辞退し、同年10月に外国奉行を辞職しました。
展示資料の「外国奉行被仰付候ニ付御切米以後頂戴無之様奉願候書付」は、文久3年8月に川路が上呈した切米・役金辞退の願書。この中で川路は、老いて御用に立たない身で3,000石の切米と300両の役金を頂戴しては、「貪禄(たんろく)之罪」のそしりを免れないと述べています。
翌元治元年(1864)8月に中風の発作で左半身不随となった川路は、江戸開城を間近にした慶応4年(1868)3月15日、表六番町の自宅で自害を遂げました。展示資料は川路聖謨の自筆。全1通。
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