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丈夫届(多聞櫓文書)(じょうぶとどけ(たもんやぐらもんじょ))

[請求番号 多030378・多034700]

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「出生届」の提出が遅れるどころか、幕臣の家では、男子が誕生してもそもそも届が出されないこともありました。理由は、身体虚弱なため無事に育つ見込みがないと判断されたからです。

これら出生が届けられていない男子も、早世をまぬがれると届(「丈夫届」)があらためて提出されました。展示資料の「組悴丈夫届申出候御届書」は、文久3年(1863)に、西丸新番頭の大久保権右衛門から提出された、配下の幕臣佐藤誠一郎の男子内蔵吉の「丈夫届」。

「出生のおり虚弱だったので出生届の提出を見合わせましたが、丈夫に育っているのでこの旨申し上げます」(意訳)と記されています。内蔵吉は安政6年(1859)生まれで、この年5歳。

「丈夫届」が提出される背景には、大名でも旗本でも当主が17歳未満で死亡した場合には、家の存続を認めない(断絶)という幕府が定めた相続の原則がありました。このため「出生届」を提出した男子が幼少時に没したり、病弱で17歳以上まで生存しない恐れがある場合に、家の断絶をのがれる便法として、「丈夫届」の慣行が定着したものと思われます。出生時の届ではない「丈夫届」では、家相続の可能性のある男子の年齢を実際より高く申告することができるからです。

参考に展示した「肥前国佐賀鍋島尚丸丈夫届」は、肥前国佐賀藩主の松平(鍋島)肥前守(直大)が文久4年(1864)に提出した、弟尚丸の「丈夫届」。尚丸は先代藩主直正(隠居して閑叟)の妾腹の五男。


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