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中川忠英(なかがわただてる)(1753-1830)
中川忠英は、幕府の日記ほかを書写して資料として後世に伝え、また自ら幕府の由緒や制度を研究したことでも知られています。
展示資料の『甲府日記』もそのひとつ。3代将軍徳川家光の三男で、5代将軍綱吉の兄の徳川綱重は、寛文元年(1661)に甲府藩主(25万石)となりましたが、『甲府日記』全12冊には、綱重が藩主になる前の慶安5年(1652)8月から、藩主になった後の延宝3年(1675)8月までの綱重の江戸邸の日記が収められています。
綱重が延宝6年(1678)に没すると、嫡子の綱豊が跡を継いで甲府藩主に。しかし宝永元年(1704)に綱豊が将軍綱吉の養嗣子となったのに伴い(綱豊はのちの6代将軍家宣)、甲府藩主が徳川氏だった時代は終わり、武蔵国川越から所替えとなった柳沢吉保が新たに甲府藩主となりました。
享和3年(1803)8月、忠英は第1冊目の冒頭に「これは自分が以前に書写したものである。欠けた部分の多い不完全な日記だが、時代の推移や過去の事実を知るために有用であり、かつ他に得難い史料だ。軽率に貸し出してはならない」と記しています。
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