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たとえ学問や武芸に励んだとしても、幕臣の子弟は誰もが幕府の役職に就けたわけではありません。父祖や親族が幕府の高官だったり、大奥その他に強力なコネがあればともかく、無役の子弟が就職したり、在職者が希望のポストへの異動を実現するためには、相応の出費とまめな努力が必要でした。
幕臣たちの就職活動。幕府の重職が江戸城に出勤する前に、その屋敷に御機嫌伺いに参上する「対客登城前(たいきゃくとじょうまえ)」と呼ばれる慣行も、その一つです。
展示資料の『蜑の焼藻の記』は、のちに目付や先手鉄炮頭などを務めた旗本の森山孝盛(1738-1815)の著。この中で森山は、「小普請組頭」のポストを得るために根気よく「権家」(幕府の有力者)の屋敷に御機嫌伺いを繰り返したと述べています。当時は田沼意次の時代で賄賂が横行。おのずと「対客登城前」も盛んで、日参どころか、日に3度も参上する者もいたとか。『蜑の焼藻の記』は全1冊。
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