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江戸時代、「大名」とは、一般に一万石以上の石高の領地を将軍から与えられた武士を指す称でしたが、幕府成立当初からそれぞれの家の出自や由緒が明らかだったわけではありません。

戦国動乱期の武士社会は、家の歴史を正確に記録する気風に乏しく、加えて多くの文書が散逸し焼失していたからです。徳川幕府の基盤が確立した寛永年間(17世紀前期)、幕府は大名旗本諸家の総合的家譜である『寛永諸家系図伝』の編纂に着手しますが、記録は不十分で古老の記憶や伝承に頼る部分もあったため、記述の正確さに問題を残しました。

幕府はその後も数次にわたって諸家に家譜(家の歴史)の提出を命じ、19世紀初めにその成果が『寛政重修諸家譜』として完成しました。これらの編纂事業は、大名旗本諸家の来歴を明らかにしただけでなく、家の記録を作成し保存する慣習を武士社会に広める効果を及ぼしました。

戦乱の世が遠ざかるにつれて、大名には武将としての能力以上に、藩内のさまざまな問題に対処する手腕と資質が求められるようになりました。名将から名君(明君)へ。おのずと名君たちの言行を回顧し顕彰する記録も作成されるようになります。

好学、慈愛、仁政、禁欲、節倹、文武奨励、人材の登用と財政改革等々。名君の条件は概してこのようなものでしたが、江戸時代の初期と後期とでは、名君と呼ばれた大名の資質や言行にすくなからぬ違いが見られます。

「名君」として側近や後世の士に言行を記録されただけでなく、みずから家臣や子女に訓戒を垂れた大名もいました。その内容は、日々の心得や役人の倫理、学問や諸芸の習得法、施政の方針など多種多彩。これら“殿さまの教え”には、今日なお傾聴に値するものがすくなくありません。

江戸後期、約260家の大名とその隠居(老公)の多くが、国許に帰国していた期間を除き、それぞれの江戸藩邸で日々を過ごしていました。藩政の監督、定期的な江戸城への登城、親類知人との交際など、彼らの生活はそれなりに忙しいものでしたが、好学で好奇心旺盛な殿さまの中には、自身の趣味の成果や蘊蓄を著書にまとめた人もすくなくありません。
これらの著書のテーマは、歴史・地誌・本草・茶の湯・外国語など多種多彩。江戸時代の学問芸術における彼らの貢献の大きさがうかがえます。とりわけ老公たちの文化的活動は顕著で、その著書を通じて、彼らの教養の高さとあわせて人間的魅力も感じ取れます。

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