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「徳川」への改姓と「家康」への改名

 永禄6年(1563)3月、元康の嫡子竹千代(信康)と信長の娘徳姫の婚約が成立し、織田家との同盟関係がさらに強化されました。一方、元康は同年6月から10月の間に、名を家康と改名しました。またこの改名は、義元から与えられた「元」の字を変えた事で、名実ともに今川家からの決別を意昧しました。
 永禄9年(1566)5月、家康は念願だった三河一国の平定を成し遂げます。そして同年末、朝廷より徳川への改姓と従五位下三河守への叙位・任官の勅許を受けました。この叙位・任官および改姓には、当時の関白近衛前久(このえさきひさ)、前久と家康を仲介した、三河国出身で京都誓願寺(せいがんじ)住持であった泰翁(たいおう)の尽力がありました。

朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう) [請求番号: 258-0010]

 林述斎が監修し、宮崎成身・戸田氏栄(うじよし)ら幕臣21 名が24年間の歳月をかけて天保13 年(1842) に完成させたもの

創業記考異(そうぎょうきこうい) [請求番号: 特042-0017]

 徳川家康の事歴を記した書