11.条約改正交渉
幕末に列国と締結した条約は相手国に領事裁判権を認め、日本に関税自主権を認めない不平等条約でした。この不平等条約の改正は、明治政府の重要外交課題でした。
岩倉使節団による条約改正打診の後、明治11年(1878)、寺島宗則(てらしまむねのり)外務卿は米国との交渉で関税自主権回復に成功しましたが、英国等の反対で実施に至りませんでした。
井上馨(いのうえかおる)外相期には、各国代表を集めて条約改正のための会議を開催し、外国人への内地開放を認めるかわりに領事裁判権を撤廃することで各国の了承を得ましたが、裁判所への外国人判事任用の条件が世上に洩れ、世論は大反対を唱えました。また、鹿鳴館での舞踏会等、交渉促進のために井上が極端な欧化主義をとったことにも批判が高まり、明治20年、井上は交渉を中止して辞任しました。
その後、大隈重信(おおくましげのぶ)外相のもと、メキシコとの間で平等条約締結に成功し、米国等とも改正条約に調印しました。しかし、大審院に外国人判事を任用する条件が知られると反対論が強まり、大隈は襲撃され重傷を負って辞任し、条約は発効に至りませんでした。あとを受けた青木周蔵(あおきしゅうぞう)外相は外国人判事任用を中止し、英国と交渉しましたが、明治24年、大津事件のため引責辞任し、交渉は再び中断しました。