8.国会開設前夜
国会開設や立憲政治の確立などを政府に求めた自由民権運動は、明治7年(1874)に板垣退助らによる「民撰議院設立建白書」を契機として全国に広がり、明治12年末には国会開設運動へと展開しました。
明治13年には、全国各地より約70件の国会開設を求める建白書が提出されましたが、新潟県の自由民権家山際七司(やまぎわしちし)らが元老院へ提出した建白書も、その一つです。
自由民権運動は、結社、演説会、ジャーナリズムといった新たな要素を用いながら拡大し、明治14年には一つの頂点を迎えました。同年起こった「開拓使官有物払下げ事件」において、民権派は、政府高官が国有財産を私物化する悪弊は国会開設により是正されると訴えました。その後、払い下げは中止され、明治23年の国会開設を約束した勅諭が発布されることとなりました。
運動が盛り上がりを見せる中、明治15年4月、自由党の板垣退助は、岐阜で演説を終えた帰りに暴漢に襲われ、九死に一生を得ました。岐阜県より太政官へ事件の経過及び板垣の容体などを報告した文書には、板垣の言葉として「我今汝ラ手ニ死スルコトアランモ自由ハ永世不滅ナルヘキ」とあり、これが「板垣死すとも自由は死せず」となって世に広まったところに、当時の運動の盛り上がりを感じることが出来ます。