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昭和20年8月
原子爆弾の投下と日本の降伏

 7月に発表されたポツダム宣言に対して、日本は明確な反応を示しませんでした。当時、ソビエト連邦を仲立ちにした戦争終結のための交渉が行われていたからです。しかし、ポツダム宣言に反応しなかったことで、連合国は日本が戦争を続けると考え、8月6日には広島、9日には長崎に原子爆弾を投下しました。また、8日にはソビエト連邦が日本に宣戦を布告しました。
 8月10日、御前会議で日本の降伏が決定します。この時から、のちに「終戦の詔書」と呼ばれる詔書の作成が始まりました。日本国民に対して、日本が降伏したことを伝えるために、内容は慎重に検討されました。14日の御前会議では、ポツダム宣言の受諾と、国民への玉音放送ぎょくおんほうそう(昭和天皇が詔書を朗読した音声をラジオで放送すること)が決定します。
 終戦の詔書の文案については、8月14日の閣議で議論され、夜には昭和天皇による詔書朗読の録音が行われます。
 そして、8月15日正午、いわゆる「玉音放送」が行われ、日本国民に対して、戦争が終結したことが告げられました。

終戦の詔書案 [請求番号: 類02885100]

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 「終戦の詔書」の作成は、ポツダム宣言受諾決定を受けて、8月10日頃より始まったと言われています。「終戦の詔書」の文言は8月14日の閣議により決定しましたが、閣議書には、確定に至るまでの9つの文案が綴られており、文言確定までの経緯を知ることができます。
 資料は「第一案」(1~3)及び「第三案」(4~6)と記されている文書です。「第一案」は内閣書記官長の迫水久常さこみずひさつねや内閣嘱託だった漢学者の川田瑞穂かわだみずほらが中心となって作成したと言われていますが、起草者をめぐっては見解が分かれています。文書の書き出しは「朕茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク」となっています。
 「第三案」では、「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」「萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」等、詔書を構成する重要な語句がこの時に加えられました。この修正は、大東亜省嘱託で陽明学者の安岡正篤やすおかまさひろによって行われたと言われています。

終戦の詔書 [請求番号: 御28610100]

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 「終戦の詔書」の文言が確定するまでには、多くの修正が重ねられました。ポツダム宣言受諾じゅだくを表明した終戦の詔書は、8月14日の閣議において決定されました。閣議では、数回の休憩を挟みながら詔書案の修正が行われました。
 閣議と並行して、一方では内閣理事官の佐野小門太さのこもんたによる公布原本の浄書じょうしょが進められていました。この浄書作業は、通常では閣議決定後になされるものですが、時間の関係で閣議決定を待たずに始められました。そのため、詔書の公布原本にも修正を加える必要が生じましたが、書き直す余裕がなく、用紙を削り、あるいは括弧を用いて字句を書き足すという、通常では行うことがない対応がとられました。
 翌15日には、昭和天皇による詔書の朗読がラジオで放送されました。資料は終戦の詔書の原本です。