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昭和20年8月
原子爆弾の投下と日本の降伏

 7月に発表されたポツダム宣言に対して、日本は明確な反応を示しませんでした。当時、ソビエト連邦を仲立ちにした戦争終結のための交渉が行われていたからです。しかし、ポツダム宣言に反応しなかったことで、連合国は日本が戦争を続けると考え、8月6日には広島、9日には長崎に原子爆弾を投下しました。また、8日にはソビエト連邦が日本に宣戦を布告しました。
 8月10日、御前会議で日本の降伏が決定します。この時から、のちに「終戦の詔書」と呼ばれる詔書の作成が始まりました。日本国民に対して、日本が降伏したことを伝えるために、内容は慎重に検討されました。14日の御前会議では、ポツダム宣言の受諾と、国民への玉音放送ぎょくおんほうそう(昭和天皇が詔書を朗読した音声をラジオで放送すること)が決定します。
 終戦の詔書の文案については、8月14日の閣議で議論され、夜には昭和天皇による詔書朗読の録音が行われます。
 そして、8月15日正午、いわゆる「玉音放送」が行われ、日本国民に対して、戦争が終結したことが告げられました。

空襲被害状況報告 [請求番号: 返青29005020]

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 8月6日に広島、9日には長崎に原子爆弾が投下されました。資料は、広島と長崎の裁判所の検事が司法省に提出した被害の報告書です。どちらも原爆が投下された日から2~3日後に書かれました。
 広島の報告書(画像1)には死者約1万名、重軽傷14~5万名、と書かれ、長崎の報告書(画像2~7)には死者3万以上、重軽傷者合わせて5~6万の見込みだが正確な計算は不可能と書かれています。原爆の被害は甚大なもので、当時は正確な被害者の数を特定できませんでした。