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5. 出品物紹介−七宝技法の発展−

幕末の開国以来、日本の工芸品は数多く欧米諸国に輸出され、ジャポニズムの流行に代表されるように海外で人気を博しました。政府は、輸出産業の花形として工芸産業を奨励するとともに、積極的に国外の博覧会に作品を出品し、日本の技術力の高さをアピールしました。七宝焼も、こうした海外向け作品の作成とともに発展した工芸品です。

七宝焼は、古来より数々の建築や道具類に使用されていましたが、江戸後期尾張藩の梶常吉が「有線七宝」を発明したことにより、美術品として発展しました。有線七宝とは、下地に細い金属線を紋様の形に植え付け、そこに釉薬を流し込むことで図柄を描く技法で、これにより細密な意匠を表現することが可能となりました。この有線七宝の技術と、明治9年に塚本貝助とお雇い外国人G・ワグネルによって開発された透明な釉薬によって、多彩な表現方法が編み出されたのでした。

展示資料は、京都の七宝家並河靖之(1845―1927)に緑綬褒章が授与された際の文書です。梶常吉によって考案された七宝技術は、尾張国遠島村(現・愛知県七宝町)の林庄五郎に伝わり、その弟子塚本貝助によって横浜・京都・東京に製法が広められましたが、並河は、塚本の弟子桃井英升に技術を学びました。並河は、京都舎密局に招かれていたワグネルの協力を得て開発した「黒色透明釉」などを用いて鮮やかな色彩を表現したほか、伝統的な有線七宝を極めた精細な図柄の作風で、美術品として完成度の高い作品を産み出しました。並河の作品は、明治10年の第一回内国勧業博覧会では鳳紋賞を受けたほか国内外の博覧会で数多く受賞し、明治29年には技術と功績を評価され、無線七宝で名高い浪川惣助とともに帝室技芸員(明治23年に設けられた旧宮内省所属の美術家。宮中で用いた工芸品・美術品の制作にあたった。)に選ばれています。

ところで、日本の勲章には七宝が使われています。これは、栄典制度の整備に伴い、政府が勲章の製作を旧幕府お抱えの七宝師平田春行に命じたもので、明治7年に作られたものが最初です。以来勲章には七宝焼が使用されており、現在では内閣府賞勲局の依頼を受けて造幣局で製作されています。

京都府平民並河靖之緑綬褒章下賜ノ件
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