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10. 人力車の発明(和泉要助ほか)

明治・大正時代に人々の足として用いられ文明開化の象徴ともいわれる「人力車」は、特許制度の創設と深いつながりをもつ発明です。人力車発明の起源には諸説ありますが、発明者としては、和泉要助(1829―1900)・鈴木徳次郎・高山幸助の3名があげられます。

和泉等は、明治3年東京府に人力車の製造及び営業の許可を願い出、日本橋で営業を始めました。人々が手軽に使用できる近距離交通手段として人力車は爆発的に広まり、翌年には東京府下で1万輌以上に増加します。こうした事態に東京府は、人力車営業組合を組織させ、営業許可書の発行や車税の取り集めなどを行う人力車総行事に和泉等を任命しました。

しかし、人力車は、発明品として特許を得ることはありませんでした。和泉等は、明治4年の「専売略規則」の制定時や明治18年の「専売特許条例」の公布時に専売特許を出願しましたが、いずれも出願時に世に普及していたことを理由に許可されなかったのです。さらに、明治6年には税制の整備により雑税が廃止され、「僕婢馬車人力車等諸税規則」により車税は区・町・村の長が回収することとしたので、総行事の職も廃止されました。和泉等は、こうした苦境にもめげずその後も人力車の改良を重ね、第一回内国勧業博覧会では龍紋賞を受章しますが、人力車の普及と相反する様に次第に社会から忘れられていきました。このように、人力車の流行にも関わらず発明者がその恩恵に恵まれなかったことは、特許制度創設の世論を喚起し、新聞等で度々特許の必要性を説く事例として取り上げられることとなりました。

展示資料は、明治33年賞勲局から和泉要助等に一時金を下賜することを通知した文書です。明治30年代には、人力車は国内で20万輌を越え、アジアを中心に国外へも輸出を伸ばしていました。こうした人力車の普及を受けて、発明者である和泉等への年金給付を求める請願運動がおこった結果、発明の功労により一時金が下賜されたのでした。

和泉要助以下三名ヘ金円下賜ノ件
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関連資料

明治初年の交通機関−車尽し−

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