「独立」以後の日本−国際社会への復帰−

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  • サンフランシスコ平和条約調印式(1951年9月8日)の式典
  • 日米安全保障条約の改定
  • 昭和基地(南極)
  • 浮力タンクを装備して進水する「ふじ」

―この平和条約は、復讐の条約ではなく、「和解」と「信頼」の文書であります。日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然受諾致します―

昭和26年(1951)9月7日、米国のサンフランシスコで開かれた講和会議において、吉田茂(よしだ しげる)首席全権は平和条約の受諾を宣言しました。翌日、日本は、48ヶ国と平和条約を結び、条約は昭和27年4月28日に発効しました。これによりGHQ(連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ))による占領が終了することなり、日本は、ポツダム宣言の受諾から約7年ぶりに主権を回復しました。

平和条約の調印が行われたのと同日、日米安全保障条約(にちべいあんぜんほしょうじょうやく)が結ばれました。昭和23年から25年にかけて、朝鮮民主主義人民共和国や中華人民共和国の建国、朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)の勃発など、極東地域において社会主義勢力が急激に拡大しており、米国は、日本に共産主義拡張の防波堤としての役割を期待するようになっていました。昭和25年7月、マッカーサー連合国軍最高司令官(兼国連軍総司令官)は、日本に自衛力の強化を求め、同年8月に警察予備隊(けいさつよびたい)が、昭和27年には海上警備隊(かいじょうけいびたい)が発足しました。警察予備隊、海上警備隊は、同年8月に保安庁が設置され、統合されました。昭和29年には自衛隊が発足し、防衛庁(ぼうえいちょう)(現・防衛省)が設けられ、防衛力強化が図られました。

また、「独立」は、日本国内の復興にも大きな影響を及ぼしました。日本の復興は、ガリオア、エロア両資金など占領地域を対象とした援助資金を受けて進められていましたが、占領の終了により、昭和26年度に両資金の供給が打ち切られました。代わりに日本が頼ったのが、世界銀行からの借款(しゃっかん)でした。日本は、昭和27年8月にIMF(国際通貨基金)及び世界銀行に正式に加盟し、翌年対日借款が始まりました。
 世界銀行からの日本開発銀行を通じた貸出しは、当初いずれも電力事業に関連しており、最初の対日借款は、昭和28年に行われた関西電力多奈川(たながわ)火力発電所の電力増強を対象としたものでした。当時の日本では復興のために安定した電力供給が急務であり、この時関西電力とともに借款を受けた、九州電力、中部電力への貸出しも火力発電所の電力供給能力の増加を目的としたものでした。以後日本は積極的に世銀借款を活用し、この多くは、電力、鉄鋼、鉄道など日本のインフラ整備に使用され、経済発展を金融面で支えることとなりました。

復興が進む一方で、平和条約締結後にも日本の国際連合(こくさいれんごう)加盟はなかなか実現しませんでした。理由は、講和会議において、国交回復を果たしていなかったソ連などの反対によるものでした。しかし、昭和31年10月、鳩山一郎(はとやま いちろう)内閣が日ソ共同宣言を調印したことで、同年12月日本の国際連合加盟が認められました。
 こうして国際社会への本格復帰を果たした翌年、日本は国際地球観測年に参加しました。これは64ヶ国が参加して地球物理現象の共同観測を実施するもので、昭和32年7月から昭和33年12月まで、気象、地磁気(ちじき)、オーロラなど多岐にわたる観測を行いました。日本は、南極観測を含むほとんどの部門に参加し、昭和32年1月、第1次南極観測隊によって昭和基地(しょうわきち)が建設されました。

昭和32年、国内においては、岸信介(きし のぶすけ)内閣が成立しました。岸内閣は、日本の経済力と自衛力強化を図るとともに、昭和35年1月、日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)に調印しました。同条約には、米国軍の日本防衛義務、軍事行動に際しての事前協議、相互の防衛力強化が規定されていたほか、条約の適用範囲が東アジアに及ぶことなどが明記されました。一方、新安保条約は日本を米国の軍事戦略にいっそう深く組み込むものだとして反対運動が高まりました。同年6月、同条約は国会の承認によって成立しましたが、岸首相は辞意を表明、翌月、池田勇人(いけだ はやと)内閣が発足しました。
 このように、独立以後1950年代の日本は、復興と国際社会への復帰を着実に進め、1960年代以降の高度成長期への助走期間ともなりました。しかし一方、安全保障をめぐっての基地問題や領土問題等に課題を残すこととなりました。

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