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22. 紅茶製法の普及(多田元吉)

明治期、茶は、生糸と並ぶ日本の重要輸出品であり、最大の輸出先は米国でした。初め輸出品の中心は緑茶でしたが、緑茶が粗悪茶の横行により信用を失い価格を下げると、政府は、欧米でよく飲まれていた紅茶の製造を奨励するようになりました。明治8年、勧業寮の官吏だった多田元吉(1829―1896)は、紅茶製法を調査すべく中国・インドに派遣されました。多田は、インドのアッサム地方、ダージリン地方、セイロン島で調査を行い、インドからアッサム種の原木を持ち帰り、日本での紅茶製造の普及に努め、静岡県丸子で紅茶の栽培に成功しました。

展示資料は、明治11年、多田が著した『紅茶製法纂要』と、明治27年多田が従七位に叙せられた際の文書です。『紅茶製法纂要』は、多田がインド滞在中、紅茶の製法に関して助言を得たエドワード・モネの紅茶技術書や、中国・インド・日本の茶樹栽培、製造法などの調査結果を参考にまとめられた紅茶製造技術書です。

多田元吉特旨被叙ノ件
紅茶製法纂要
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