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19. 俵造の改良(遠藤吉平)

明治初年、米、海産物、塩などは俵で荷造りされ各地に輸送されていました。この俵造の改良もまた、明治の産業発展を底辺で支えた発明品といえるでしょう。明治11年、函館の海産物商だった遠藤吉平(1841―1931)は、三菱汽船で荷物を品川に送ったところ荷造の俵が破損し、多大な損失を被りました。これに対して船主である三菱汽船は、「回漕貨物取扱条例」に船荷証券の裏面に荷造粗造による荷物の増減は船主に責任がないことが記載されているとして、荷物の賠償を受け付けませんでした。この事件をきっかけに遠藤は、生涯俵造の改良と普及に尽くすことになりました。

当時、函館ではニシン漁が盛んで、荷揚げされたニシンは、ミガキ(身欠)鰊と魚肥に加工して販売されていました。このうち魚肥の荷造法は粗雑で輸送に不便であるだけでなく、脱漏、破損も多く、さらに俵造の大きさが一定でないため、船積み、売買にあたり抜取検査が必要とされるなど、多くの問題を抱えていました。遠藤は、荷造改良の必要性を関係官庁や各地の商工会議所への意見提出、第二回内国勧業博覧会への改良ひな型の出品などを通じて訴えました。これにより、明治15年農商務省から俵造改良が通知されたほか、明治19年、魚粕の荷造を20貫(約75kg)内外にするという魚粕荷造法が北海道で布達されました。その後も遠藤は、出版物や講演などで俵造改良を訴え、明治41年には衆議院議員に当選し、議会で俵造改良についての意見を述べています。

展示資料は、遠藤が俵造改良に対する長年の功績により藍綬褒章を受章した際の文書です。審査のために参考資料として添付された改良俵造の写真等も併せて展示しています。

遠藤吉平ヘ藍綬褒章下賜ノ件
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