モンゴルの都市整備と日本人抑留者

 昭和16年(1941)12月8日、日本は、アメリカ、イギリスに宣戦布告し、第二次世界大戦に参戦しました。
 昭和20年(1945)8月8日、ソ連政府はモスクワで駐ソ日本大使に宣戦布告文書を手渡しました。昭和11年(1936)にソビエト連邦との間で相互援助議定書を締結していたモンゴルは、締結により負った義務を履行するため、また、自国の独立の強化のために対日参戦を決定。モンゴルの国家小会議と政府が昭和20年(1945)8月10日に対日宣戦布告文書を発しました。
 日本は降伏を決定し、8月15日に天皇より日本国民に対して、戦争が終結したことが告げられました。日本の軍人等約57万5千人がソビエト連邦の捕虜となり、その中から1万2千人あまりがモンゴルに送られました。モンゴルに送られた捕虜(抑留者)はウランバートルの都市建設の労働力などとして過酷な日々を過ごすことになりました。抑留者やその暮らしについて、多数の記録がモンゴルに残されています。

捕虜管理庁の設立

 資料は、昭和20年(1945)10月12日の閣僚会議における決議書で、捕虜管理庁を設立することが以下のとおり書かれています。
  1. 閣僚会議傘下に他省と同等の権威をもつ捕虜管理庁を設置する。
  2. 捕虜管理庁の第一の目的は抑留者に様々な物資を提供し、労働力を行使させること。内務省が抑留者の世話をし、保護する。
  3. 閣僚会議は閣僚会議傘下の捕虜管理庁総局の運営・規則を承認するように説示された。
国立中央公文書館(歴史資料館)
Fund-11, File-1, Unit-704
第87回モンゴル人民共和国(人民大会議)幹部会における決議

都市建設に従事した日本人抑留者

 昭和21年(1946)5月25日付の日本人抑留者の登録簿です。ウランバートルの都市整備に従事した抑留者の労働日数・1日あたりの労働時間が記載されています。
国立中央公文書館(歴史資料館)
Fund-276, File-1, Unit-48
捕虜管理庁総局のもとで従事していた日本人捕虜の登録簿

抑留者への医薬品の提供

 資料は捕虜管理庁における、月ごとの薬、病院設備、その他病院からの支給品の利用状況を記録したものです。同庁は抑留者に様々な物資の提供を行い、世話をする担当局でした。昭和22年(1947)3月には有償又は無償で以下の医薬品が提供されたと記録されています。
 薬局より搬出:543トゥグルグ81モング相当
 購入:118トゥグルグ85モング相当
 無償提供:240トゥグルグ79モング相当
 ※1トゥグルグ=100モング
国立中央公文書館(歴史資料館)
Fund-276, File-1, Unit-105
捕虜管理庁の管理下にある病院の薬の収入及び支出の月次報告

モンゴルの都市建設に関与した日本人抑留者

 資料は、昭和20~22年(1945~1947)にかけての写真です。日本人抑留者は以下のものを建設し、モンゴルの都市建設にかかわりました。
 政府庁舎(基部)、オペラ劇場、外務省と23のアパート、映画館、国立中央図書館、党中央委員会の12のアパート、党の学校、初の産科病院、モンゴル国立大学の校舎、郊外のイフ・テンゲル、ソンギーノ、ヌフトといった地域の多くの建築物を建てました。
国立中央公文書館(映像・画像・音声資料館)
Fund-8, File-1-1, Unit-15
モンゴル人民共和国の(都市)建設に関与した日本人捕虜
 戦争が終わってなお過酷な時を過ごした抑留者たちの日々は、モンゴルの都市整備につながりました。その後、双方の交流は形を変えて広がってゆきました。
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