19~20世紀初頭の日本モンゴル関係

 日本は江戸時代に寛永16年(1639)から嘉永7年(1854)まで鎖国を行っており、明治改元(1868年)の後も、日本とモンゴルの関係は明確ではありませんでした。しかし19世紀末には次第に外の世界を知ろうと、日本から外国を訪れる人が現れました。そのなかには、ヨーロッパと陸続きであるモンゴルを探索する人もでてきました。彼らは未知の土地での探検の様子を記録に残して伝えました。一方、モンゴルに暮らす日本人の記録も残されています。19世紀末には日本人が当時のフレー(現在のウランバートル)に住んでいました。しかし20世紀前半、とりわけ昭和6年(1931)9月18日の満州事変に続き、翌年には日本軍によって作られた満州国が出現し、その国境がモンゴルと接することによって、軍事的な緊張が次第に高まっていきました。

モンゴルを訪れた日本人(福島安正)

モンゴルを単騎横断した福島安正の功績

 明治陸軍参謀本部における情報将校だった福島安正中佐(後、中将)(1852~1919)は、1880年代に行っていた英領インドの調査、バルカン半島の視察に続いて、明治25年(1892)、ドイツ大使館から帰国する際、翌年にかけてシベリアを単騎で横断しました。アルタイからモンゴルに入り、フレー(現在のウランバートル)、キャフタ、イルクーツクへ進みました。60日間モンゴルに滞在し、現地で見たモンゴル人の習俗を著作『単騎遠征録』のなかで紹介しています。モンゴルの住まいや文字、食べ物、生活習慣などを広く紹介したこの報告書は、当時の日本人にとって、直接モンゴルに関する知見を得る情報でした。
 本資料は、福島安正が明治26年(1893)6月に単独シベリア横断旅行を行ったことを理由に勲三等に叙せられた際の功績を記したものです。
国立公文書館
勲00001100
陸軍歩兵中佐正六位勲六等福島安正勲位進級ノ件

福島安正の肖像

 福島は、モンゴル滞在に関する報告書の中で、煮出して飲む磚茶だんちゃなどのモンゴル独特の風習を紹介しています。磚茶は、軟らかくした茶葉を整形し、圧搾して固めたもので、遠方への運搬が簡単でした。モンゴルでは磚茶をミルクティーとして飲む習慣がありました。
 世界における当時の磚茶の二大輸出国は中国と日本でした。明治16年(1883)、販路拡張や製茶品質の改良方法などについて協議を行う茶業者の組合では、モンゴル人に需要があった緑茶磚茶についての情報がサンプルの現物とともに報告されました。同年、日本の磚茶の輸出が始まりました。
国立国会図書館
427-53
近世名士写真 其2

モンゴルに住む日本人

キャフタでの居住を希望する日本人たち

 20世紀初頭、日本人医師吉田はロシア領土を巡り、モンゴルに滞在、モンゴルにて医師活動を行っていました。大正4年(1915)9月17日の通知書には、日本の民間人である吉田がキャフタのマイマイホト(買売城)に住むことを望み、患者の治療を行うため、許可証の取得を要請したことが書かれています。
国立中央公文書館(歴史資料館)
Fund-А4, File-1, Unit-339
患者を助けるため、キャフタでの居住を要請する日本人医師 (吉田豊三)の滞在可否についての、キャフタのマイマイホト(買売城)に駐在する当局員バルダンツェレンによる通知書

オリャースタイ(烏里雅蘇台)等20地点における日本人商人

 大正7年(1918)、日本人商人らがニースレレル・フレー(現在のウランバートル)での質屋の開設の理由を説明し、保護を求めて上申書を提出しました。(要請の根拠となる)規約についても記されています。
 しかし、日本の商人がニースレレル・フレーにおいて質屋を設立した場合、借金の抵当として、人々の家を担保にして搾取されることが懸念されていました。
 そのため、日本人による質屋の設立は許されず、オリャースタイやホブドにおいてはこの通知に従うよう命じられました。
国立中央公文書館(歴史資料館)
Fund-А4, File-1, Unit-674
オリャースタイ駐在長官等による、20地点における日本人商人による商店の開設不許可の通知書

20世紀初頭のモンゴルの地図

 19世紀以降、軍事的な関心から陸軍参謀本部陸地測量部により日本領土以外の地域の地図が刊行されました。モンゴルについても、日本人が活動していたキャフタ(恰克図)や、フレー(庫倫)をはじめ、多くの地点の地図が作られました。
 資料は明治36年(1903)に縮尺100万分の1で作成され、明治43年(1910)に印刷されたものです。
国立公文書館
ヨ292-0187
東亜輿地図(恰克図、庫倫)

ボグド・ハーン政権の成立と日本への書簡

ボグド・ハーン政権より日本への書簡

 20世紀後半の外交関係の樹立に先立って、明治43年(1910)以降にモンゴルから日本に対する一つのはたらきかけが見られました。
 明治44年(1911)10月、中国で辛亥革命が起きると、モンゴルはボグド・ハーン政権のもと独立を宣言しました。同政権は大正元年(1912)11月以降、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、日本等とも対外関係を結ぼうとしました。
 大正2年(1913)12月、ボグド・ハーン政権のT-O. ナムナンスレン総理大臣の訪露の際、随員より駐露日本大使に書簡が手交されました。書簡の内容は、ボグド・ハーン政権が独立し、ロシア、中国から承認されたことを知らせ、各国の政府に対してその旨の伝達を依頼するものでした。
 本資料は、T-O. ナムナンスレン総理大臣から駐露日本大使への書簡が届いたこと、同政権が各国に同様の書簡を宛てていることを、田付七太駐露臨時代理大使から牧野伸顕外務大臣に伝える書簡(大正2年(1913)12月26日付)と、前述のT-O. ナムナンスレン総理大臣から駐露日本大使への書簡です。
外務省外交史料館
2.1.2.21
露蒙協約一件 第四巻 分割4

ノモンハン事件(ハルハ河戦争)

ハルハ廟事件をめぐるマンチューリ(満洲里)会議

 モンゴル人民共和国と満州国の国境で昭和10年(1935)に起きたハルハ廟事件後の交渉に参加した代表者J. サンボーの報告を聞いた後の合同会議の決議。政府の方針に従い、友好的にハルハ廟事件を解決するようモンゴル全軍総司令官副官J. サンボー等に説示しました。
 マンチューリ会議は数次にわたり開催されましたが、具体的な成果が得られませんでした。
国立中央公文書館(政党・公共団体関連資料館)
Fund-4, File-5, Unit-96
ハルハ廟会談についてのJ. サンボーによる報告を受けての、モンゴル人民共和国幹部会、中央委員会の合同会議の決議

ノモンハン事件の際にソ連・モンゴル連合軍の飛行機から撒布されたビラ(通行券)

 昭和14年(1939)5月から9月まで、当時の満州国とモンゴルが接する国境付近で、日本・満州国軍とソ連・モンゴル連合軍が国境地帯の領土の帰属をめぐり、ノモンハン事件が発生しました。その際にソ連・モンゴル軍の飛行機から、敵国(日本)の兵士の戦意を失わせるためにビラ(伝単)も散布されました。
 このビラは、「-通行券-ソ外蒙古の方面に通過の為通行劵。」と書かれ、縁取りには「武将、士官と地主は君達の不倶戴天の敵だ! 」「各捕虜は自由な、幸福な生活を受ける。」「自分命を拾う!」「兵卒! ソ外蒙古兵卒は君達の兄弟だ。」と印刷されています。命を保証すると伝えることで日本兵に投降を促すメッセージが日本語で書かれています。
 本資料は防衛省防衛研究所に所蔵されています。
防衛省防衛研究所(戦史研究センター)
満州-ノモンハン-158
「ノモンハン」事件におけるソ連、外蒙古の伝単 昭和14年4月~14年8月末
 このように双方の交流は再び始まりましたが、次第に日本、モンゴルとも世界大戦の流れに巻き込まれていきます。
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