13世紀の日本モンゴル関係

 日本とモンゴルの接触のはじまりとして記録に残っている出来事は大元ウルスの時代(以下は「元」と略す)の元寇(モンゴル帝国の襲来)です。元は、高麗を征服後、たびたび日本に通好を求めましたが、鎌倉幕府が拒否したため、文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2度にわたり、元、高麗などの連合軍が北九州に来攻しました。
 日本への影響は大きく、当時の様子を伝える様々な資料が日本に残っています。

国書

モンゴル帝国から日本への国書 

 元久3年(1206)に建国された大モンゴル国(モンゴル帝国)は急激に膨張し、文応元年(1260)に第5代皇帝に即位したフビライ・ハーンが文永8年(1271)に国号を「大元」と改め、大元ウルスが成立します。
 文永11年(1274)10月の元寇(モンゴル帝国の襲来)に先立ち、文永3年(1266)、モンゴル皇帝フビライ政権の発した2通の国書が属国とした高麗に届けられました。1通は高麗国王に、モンゴル帝国の使を案内して日本に赴くべきことを命じたもの、もう1通は日本国王に通好を求めたものでした。高麗の使者は、日本に対する国書を携え、文永5年(1268)に太宰府に到着しました。
 国書は大モンゴル国の皇帝フビライ・ハーンから日本国王にあてた内容で、かねてより中国と通交してきた日本がモンゴル帝国へ使者を派遣していないことから、モンゴル帝国より使者に書簡をもたせて日本に派遣したこと、今後は友好や親睦を深めることを願うことが書かれていました。ただし、日本がこれを拒否すれば武力を用いることも示唆していました。
 本資料は奈良県にあった東大寺尊勝院の文書の写しです。
国立公文書館
184-0216
蒙古国牒状

モンゴル帝国からの国書到来について記された公家の日記

 日本における外交や防衛の機能を担っていた太宰府に届いた国書は鎌倉幕府に届けられました。その後、朝廷は文永5年(1268)2月8日、幕府から元の国書を正式に受け取りました。幕府御家人や貴族の間では、国書が届いたという噂は広く知られていました。
 本資料は、鎌倉時代中期の公家で、関白を務めた近衛甚平の日記です。江戸城の紅葉山文庫に所蔵され、後に明治政府が引継ぎ、内閣の蔵書として当館に伝わっています。
 日記には、高麗と元から国書が来たことが、「国家の珍事、大事なり。万人驚嘆の外、他なし」(万人が驚くしかない)と記されています。
 この国書に対する返書は送られず、幕府の黙殺を受けてフビライ・ハーンは再び使節を送りました。使節は再び元と高麗の国書とともに対馬に到着しましたが、返書が送られることはありませんでした。
国立公文書館
162-0072
深心院関白記じんしんいんかんぱくき

元寇(モンゴル帝国の襲来)

モンゴル帝国の襲来の様子を描いた絵巻

 日本の通好拒否にあったフビライ・ハーンは、高麗に1万の軍と、1千隻の軍船の用意を命じました。元から日本への5度の使者は実を結ばす、幕府は国書を黙殺する一方、防衛態勢の強化に乗り出しました。
 文永11年(1274)10月5日、多数の軍船が対馬に現れ、10月14日には壱岐を襲撃しました。これが一度目の元寇です。
 肥後国(熊本県)御家人であった竹崎季長は、わずか5騎の従者とともに元軍へ突入しました。竹崎は弘安4年(1281)の元寇にも出陣し、それらの様子を絵と詞書で記録し絵巻として残し、その写本が広まっていきました。
 紹介する場面には、文永11年(1274)の文永の役において、馬上の竹崎に向かって元軍の兵が矢を放ち、その間で「てつはう」と名づけられた火器が炸裂している様子が描かれています。戦況は元軍が優勢でしたが、日本側も善戦し、最終的な勝負がつかないまま、船は撤退しました。
 その後もフビライ・ハーンは使者を数度にわたり送りましたが、要求を拒否し続けた日本は、元軍の再襲が必至と考え、20キロメートルに及ぶ石塁を築いて戦いに備えました。
 弘安4年(1281)5月、高麗軍が対馬に再び姿を現し、7月には14万、4千隻を超える元と高麗等の連合軍の大艦隊が博多湾に到着しました。これが二度目の元寇です。一度目と異なり、石塁や定期的な異国警固を行っていた日本側は元軍を迎撃。さらに暴風雨により大船団の多くが破壊され、船団は撤退していきました。
国立公文書館
216-0002
蒙古襲来絵詞

寺社にて作成された元寇の様子

 元寇から数十年経った鎌倉末期に神社で作成された記録にも、元寇の状況が祈祷と関連づけて記述されています。
 資料の『八幡宮愚童記』(『八幡愚童訓』)には、多くの寺社において日本の勝利を願う祈祷が行われ、神社仏閣の力により平定されたと書かれています。元寇が武士に限らず、日本の宗教にも大きな影響を与えていたことがうかがわれます。
 また、この資料は元寇の際の対馬・壱岐入寇の状況について書かれた当時の数少ない記録となっています。紹介するページには、日本軍のわずか12、3歳の者が、日本の戦の開始を合図する行為である矢合わせのために小さな鏑矢を射たところ、元軍が一斉にどっと笑ったことや、元軍の歩兵が太鼓や銅鑼を鳴らし、火薬弾を放ってときの声をあげて進退したこと、武器として毒を塗った短い矢を用いたことが記されています。
143-0180
八幡宮愚童記
 日本国国立公文書館では、元の時代に福建の建安虞氏が出版した『全相平話』も保管しています。

元の時代の物語

元の至治しち年間に刊行された歴史物語

 元の至治年間(1321~23)に江浙行省福建道建安県こうせつこうしょうふっけんどうけんあんけんで刊行された『三国志』を含む歴史物語が日本に現存しています。全相とは、全てのページに挿絵があること、平話とは批評を加えた物語のことです。この資料は中国とモンゴルで原書が失われ、現存する世界で唯一の刊本です。
 本資料は元の時代に広く親しまれていたものでした。日本に伝わった時期は定かではありませんが、元の時代の書物が日本に伝わっていたことを示す資料です。江戸城の紅葉山文庫に所蔵され、後に明治政府が引継ぎ、内閣の蔵書として当館に伝わっています。昭和30年(1955)、国の重要文化財に指定されました。
国立公文書館
重002-0002
至治新刊全相平話三国志
 日本に強烈な印象を与えた元寇(モンゴル帝国の襲来)でしたが、その後も大小の戦闘と軍事緊張が続きました。
 時代は下り、双方に新たな交流の機会が訪れ、記録に現れたのは19世紀になってからでした。
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