日本で古くから盛んに行われてきた武芸の一つである相撲。日本での相撲は、『日本書紀』に記述が残る「捔力」が起源といわれています。『日本書紀』には、天覧の捔力で、野見宿称が当麻蹴速の脇腹を蹴り、骨を折って絶命させた場面が描かれています。互いに足技を繰り出す様子から、現代より荒々しい取組だったことがうかがえます。
武芸は「戦うための技術」ですが、同時に「神に祈る儀式」という側面も持っていました。特に、相撲や競馬は、五穀豊穣の祈願などを目的として行われ、奈良・平安時代になると宮中の年中行事として制度化されます。『今昔物語集』には、永観2年(984)に宮中で行われた「相撲節会」の様子が記録されています。
競馬は、現代の競馬とは異なり、馬術の腕前や馬の善し悪しも含めて勝敗が決まる競技でした。平安時代になると貴族の邸宅でも遊びとして行われ、『源氏物語』には光源氏の邸宅で行われた競馬の描写があります。
「笑えない」ほど壮絶な取組
平安時代の相撲には、勝敗が決した後、手を叩いて負けた方を笑うという作法がありました。しかし、『今昔物語集』の相撲節会に登場する成村と常世の取組は、それができないほど壮絶を極めたと記されています。二人は相撲人の最高位「最手」でしたが、この取組後に両者とも不遇の死を遂げ、以後、最手同士の取組は行われなくなりました。
道長と光源氏、競馬が共通点?
平安時代の有力貴族・藤原道長は大の競馬好きで、邸宅で頻繁に競馬を行っていた記録が残っています。道長を光源氏のモデルとする説もありますから、『源氏物語』の競馬の描写は、道長の邸宅をモデルにしているのかもしれませんね。
武士が政権を担う鎌倉時代になると、武芸は戦闘技術として重要視されるようになりました。鎌倉武士には馬を走らせながら弓を射る技術が求められ、鍛錬のために騎射三物と呼ばれる「笠懸」「犬追物」「流鏑馬」が盛んに行われました。
また、戦国の世が訪れると、新たな武芸も登場します。天文12年(1543)に伝来した鉄砲は、織田信長をはじめ多くの武将が、武器として実戦で用いるようになりました。兵法上の特殊技能である忍術が発展を始めたのも、室町時代のこと。江戸時代の忍術書『万川集海』には、水上を移動するための水蜘蛛などの忍具が図入りで記されています。
高難度の笠懸「小笠懸」
笠懸の中でも難度が高いのが「小笠懸」。大人の膝下ほどの高さにある12~24cm四方の的に、至近距離で馬を走らせながら矢を当てる、という厳しい条件が課された競技でした。当時、矢も真っ直ぐ飛びにくい鏑矢を使っていたため、好成績を収めるには相当の技量が必要だったはずです。
本多忠勝、槍は苦手だった
徳川四天王の一人で、槍の名手としても知られる本多忠勝ですが、『甲子夜話抄録』には、槍術が「下手」だったと記されています。しかし、修練を怠らなかったためか、実戦では本領を発揮したようです。
剣術も忍術も全て「兵法」のうち
「兵法」と聞くと、戦場で大規模に兵を動かして戦に勝つ方法、というイメージがありますが、鎌倉時代から江戸時代ごろは、一対一で戦うための武術も全てひっくるめて「兵法」と呼んでいました。剣術、槍術、忍術なども含む汎用性の高い言葉だったのです。
泰平の世が続き、江戸時代の武士たちは、次第に戦から遠ざかっていきます。「文武弓馬の道」を奨励していた武家諸法度の第1条も、5代将軍徳川綱吉の天和令からは「文武忠孝を励し」と改められました。
一方、8代将軍に就任した吉宗は、武芸の再興・復興に尽力します。吉宗が特に力を入れていたのが、生類憐れみの令を機に行われなくなった鷹狩の再興でした。『享保遠御成一件』には、吉宗による鷹狩の詳しい記録が残っています。さらに、古来の武芸に関する研究にも、自ら取り組みました。
また、11代将軍家斉も武芸に長けていたと伝えられる将軍です。特に打毬が得意で、『家斉公御実記』には、その腕は「老練の者でも及ぶ者はいない」と記されています。
鷹の性格も分かる? 飼育手引書
鷹狩に欠かせない鷹には、飼育に関する手引書もありました。展示した『内本之次第』と『鷹養生之書』には、鷹の育て方や病気になった時にお灸を据える部位、瞳の模様から狩の向き不向きを見分ける方法など、さまざまな情報が記されています。
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鷹養生之書
吉宗が読み込んだ『小笠原礼書』
吉宗は紅葉山文庫(幕府が江戸城内の紅葉山に設けた文庫)からさまざまな書物を出納(借り出し)していますが、中でも何度も出納した記録が残っているのが、武家の弓馬等の故事を伝える『小笠原礼書』です。
武芸上覧は出世のチャンス
江戸時代には、将軍の前で幕臣が、剣術、柔術、槍術などの腕前を披露する「武芸上覧」が行われていました。武芸上覧で優秀な成績を収めることは、自分の名誉や家の功績になり、またとない出世のチャンスでもありました。
嘉永6年(1853)、黒船が来航すると、武士に再び武芸の腕が求められる時代が訪れます。幕府は、講武所を設置して武芸者を師範役に登用し、幕臣の武力を強化。武士の中には、西洋の武術を習おうとする者も現れました。しかし、多くの武士は長らく実戦から離れていたため、鎧の着方さえ分からない者が少なくありませんでした。
猫に教わる武芸の極意
展示資料の中でもユニークなスタイルを取っているのが『猫之妙術』。猫と人間が対話しながら、武芸の精神面を分かりやすく解説した哲学書です。著者・佚斎樗山ゆかりの千葉県野田市では、「猫の妙術杯剣道大会」が開かれています。
本当に1か月分ですか?
新撰組の近藤勇の名前で、京都の公用方に出された「練兵入用ニ付合薬并雷管御下ケ渡奉願上候覚」は、毎月の鉄砲の教練に必要な合薬などの支給を依頼した文書です。合薬45貫45匁、雷管を5000箇も要求しているのですが、1カ月分にしては多すぎるような…。この依頼はあえなく却下されてしまったようです。
江戸時代、長崎の出島で暮らすオランダ人は、海外のスポーツに関する情報も日本にもたらしました。『紅毛雑話』には、出島の商館に住むオランダ人の余暇の楽しみとして、バドミントンに似たスポーツが紹介されています。右の画像は、シャトルに似た「ウーラング」と「ラケット」の図で、それぞれの素材、大きさ、使い方などが記されています。
また、日米修好通商条約の批准書を交換するための使節団が残した『航米日録』には、アメリカから帰国する船の中で、水夫がフェンシングをしている様子を見物したことが書かれています。
「フとナ」で感じる幕末の面白さ
他館の『航米日録』ではフェンシングを「フヱンシンクマールト」と記しているのですが、当館所蔵のものは、なぜか「ナヱンシンクマールト」。書き写す時に間違えたようです。こんなミスにも、外国語を日本語に受け入れていく幕末期ならではの面白さを感じます。