あの日の公文書 9月24日 南洲忌 西郷どん、激動の一生

 明治10年(1877)のこの日、西南戦争を戦っていた西郷隆盛は銃弾に倒れ、自決しました。明治政府樹立の英雄でありながら、賊将として非業の死を遂げるという波瀾万丈の人生でした。

 文政10年(1828)、鹿児島城下に生まれた西郷は下級藩士でしたが、薩摩藩主島津斉彬に見出され、活躍の場を広げていきます。斉彬が急逝した後は、奄美大島や徳之島、沖永良部島での生活を余儀なくされた時期もありましたが、その力を認められて表舞台に戻ると、戊辰戦争で新政府軍の参謀として旧幕府軍に勝利し、明治政府樹立の立役者となりました。特に勝海舟との話し合いによる江戸城無血開城は、大きく西郷の名を高めることとなります。明治維新後も、新政府の参議として廃藩置県にたずさわるなど重要な役割を果たしました。

 しかし、政府内での意見の対立から、職を辞して鹿児島に戻ると、私学校を開設し、若者の教育などにあたります。やがて、政府の政策に不平を持つ若者たちとともに挙兵し、西南戦争が勃発。西郷軍には九州各地から多くの士族が加わり、激しい戦いが繰り広げられますが、最後は明治政府軍によって鎮圧され、西郷も自決しました。
 明治政府樹立に大きく貢献しながら、最終的にその政府と戦って命を落とすまでの行動には、今も多くの謎が残されています。西郷の死を悼む「南洲忌」という名称は、かつて沖永良部島で文筆活動をしていた際に使用した西郷南洲という名によります。

西郷参議辞表

「西郷参議辞表」。西郷は明治6年(1873)10月23日に陸軍大将近衛都督兼参議の辞職願いを提出し、鹿児島へと戻っていった。

西郷隆盛外二名官位褫奪

「西郷隆盛外二名官位褫奪」。西南戦争勃発後に西郷は官位を剥奪される。官位を剥奪される3名の中に「陸軍大将正三位西郷隆盛」の文字を確認できる。

西郷が最期を迎えた鹿児島市城山の地には、渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者・安藤照が8年をかけて制作した西郷像がそびえている。