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紅葉山文庫とは

江戸に幕府が開かれる前の年、慶長7年(1602)に、徳川家康は、江戸城富士見の亭に貴重書を収蔵する文庫を創設しました。将軍の図書館であると同時に貴重な歴史資料を収めた、将軍のアーカイブズの誕生です。

3代将軍徳川家光は、文庫を管理するために書物奉行の職を設け、寛永16年(1639)には、江戸城紅葉山の麓に書庫を新設。以後、将軍の図書館・アーカイブズは、紅葉山の御文庫(紅葉山文庫)と呼ばれるようになります。そして8代将軍徳川吉宗は、国の内外から有用な文献を積極的に収集して蔵書の充実に努めました。

紅葉山文庫の特徴は、たんなる権威の象徴や将軍の娯楽用のコレクションではなく、施政のための様々な情報を得る学術参考図書館かつ文書館の役割を果たしたことです。歴代の将軍や幕府の高官そして学者たちは、必要な文献を書物奉行に調査させるだけでなく、資料を文庫から取り寄せてこれを研究調査しました。

歴代の将軍のなかで、とりわけ積極的に紅葉山文庫の資料を利用したのは徳川吉宗。その成果は「享保の改革」と総称される彼の施策の随所にうかがえます。明治維新後、紅葉山文庫の蔵書は新政府に引き継がれ、今日その多くを国立公文書館が所蔵しています。

今回のテーマは「将軍のアーカイブズ」。家康と吉宗を中心に、紅葉山文庫の多彩な蔵書の一端を紹介するとともに、それらがどのように利用され活用されたかに光をあてます。

紅葉山文庫 略年表

将軍 事項
慶長7年(1602) 江戸城の富士見の亭に文庫(紅葉山文庫の前身の富士見亭文庫)を創建。足利学校の寒松が蔵書目録(第1回)を編集する。
慶長8年(1603) 徳川家康、征夷大将軍となり江戸に幕府を開く
元和2年(1616) 徳川家康 没 その蔵書が江戸と御三家に分配される。
元和9年(1623) 徳川家光、3代将軍となる
寛永10年(1633) 書物奉行の役職を設け、文庫の管理に当たらせる。
寛永16年(1639) 江戸城の紅葉山の麓に文庫を新築する。
延宝8年(1680) 徳川綱吉、5代将軍となる 林鳳岡が文庫の蔵書目録(第2回)を編集する。
元禄6年(1693) 初めて書物同心を任命する。
宝永6年(1709) 徳川家宣、6代将軍となる
正徳元年(1711) 書庫を増築し、計2棟となる(従来の書庫を「東御蔵」、新築の書庫を「西御蔵」と称す)。
正徳3年(1713) 将軍家宣の蔵書「桜田本」を紅葉山文庫に移すことになり、同区域内にある「御屏風蔵」を書庫に改修して「新御蔵」と称す(書庫は計3棟に)。
享保元年(1716) 徳川吉宗、8代将軍となる
享保5年(1720) 林信充が文庫の蔵書目録(第3回)を編集する。
享保8年(1723) 書物奉行らによって蔵書目録(第4回)が編集される。
享保18年(1733) 享保10年に着手した蔵書目録(第5回)が完成。
享保19年(1734) 書物奉行1名が毎日交替で出勤(日直)することとなる。
宝暦10年(1760) 徳川家治、10代将軍となる
明和4年(1767) 青木昆陽、書物奉行となる。
明和5年(1768) 明和3年に着手した蔵書目録(第6回)が完成。
天明7年(1787) 徳川家斉、11代将軍となる
寛政5年(1793) 寛政3年に着手した「小目録」(略目録)(第7回)が完成。
文化2年(1805) 享和2年(1802)に着手した『新訂御書籍目録』(第8回)が完成。
文化5年(1808) 近藤重蔵、書物奉行となる。
文化10年(1813) 「新御蔵」を修理し、一部を貴重書庫とする。
文化11年(1814) 高橋景保、書物奉行となる。
文化14年(1817) 貴重書の保存方法を定める。
府県志(中国地方志)の収蔵を建言。
火災に備えて書庫に鉄製の水溜4つを設置する。
近藤重蔵、『右文故事』(展示資料48)を献上。
文政11年(1828) 豊後国佐伯藩主毛利家献上本を収蔵。
天保元年(1830) 書庫1棟(「新規御蔵」)完成(計4棟に)。
天保2年(1831) 4棟の書庫の名称を改める(「一ノ御蔵」〜「四ノ御蔵」)。
天保7年(1836) 文化11年に着手した『重訂御書籍目録』(展示資料51)(第9回)が完成。
嘉永6年(1853) 徳川家定、13代将軍となる  
安政4年(1857) 紅葉山文庫所蔵の洋書を蕃書調所へ移す。
慶応2年(1866)  徳川慶喜、15代将軍となる 元治元年(1864)着手の『元治増補御書籍目録』(第10回)がこの年に完成か。
書物奉行が廃され、書物方同心は学問所の付属となる。
慶応4年(1868) 鳥羽伏見の戦、江戸開城。

明治以後の紅葉山文庫

将軍
明治2年(1869) 大学(文部省の前身)の所管となる。
明治3年(1870) 大史局の所管となる。
明治4年(1871) 太政官正院式部寮の所管となる。
明治5年(1872) 太政官正院歴史課の所管となる。
明治6年(1873) 皇居の火災により五千数百冊焼失。
明治8年(1875) 歴史課が修史局に改められ、修史局の所管となる。
明治10年(1877) 修史局が修史館に改められ、修史館の所管となる。
明治17年(1884) 太政官文庫が新設され、修史館所管の紅葉山文庫を太政官文庫へ移管する。
明治18年(1885) 内閣制度の創始に伴い、太政官文庫は内閣文庫と改称。
明治24年(1891) 内閣文庫の貴重書のうち約三万冊を宮内省へ移管する。
昭和46年(1971) 国立公文書館の設置に伴って、内閣文庫はその一部門となる(平成13年に国立公文書館が独立行政法人に移行したのちも、内閣文庫の所蔵資料は同館で保存・利用され、今日に至っている)。

書物奉行に聞く

紅葉山文庫について、その管理を担当した書物奉行にもう少し詳しく聞いてみます。

(注意)本文は、江戸時代の書物奉行が回答する形式をとっておりますが、内容理解のため現代語で紹介しています。

Q1

紅葉山文庫には、どのような資料が何冊くらい収蔵されていたのでしょうか。

回答

江戸時代の初期と幕末では違いがあるが、幕末に編集された『元治増補御書籍目録』によれば、漢籍が約75,000冊、御家部(おいえのぶ)が約26,000冊、国書部(こくしょのぶ)が約12,000冊とある。合わせて113,000冊以上になる。

Q2

「漢籍」が主として中国人が漢文で著した図書で、「国書」が日本人が著した図書であることはわかりますが、「御家部」というのはどのような図書を指しているのですか。

回答

「御家部」は紅葉山文庫特有の分類で、御家すなわち徳川家の歴史や事績、幕府の記録類や編纂物を収めた。

Q3

それにしても蔵書の65%以上が漢籍ですね。だとすれば漢籍の中でも分類が必要だったと思うのですが。

回答

漢籍は中国の図書分類法である四部分類法に拠って、経・史・子・集に分類されたが、紅葉山文庫では、集部の次に「付存部」を設けて、戯曲や通俗小説、蛮書(洋書)、朝鮮人の著述、満州文の図書などを収めた。

Q4

紅葉山文庫の書庫は江戸城内のどこにあったのですか。

回答

江戸城の吹上地区の西側に紅葉山と呼ばれる丘があり、山上には徳川家康ほか歴代将軍の霊廟が営まれていた。その麓に「御宝蔵」と呼ばれる数棟の倉庫があった。「御屏風蔵」「御具足蔵」「御鉄炮蔵」「御書物蔵」で、このうち「御書物蔵」が紅葉山文庫の御蔵にほかならない。

Q5

書庫の大きさは?

回答

寛永16年に建てられた御蔵(「御書物蔵」)は、長さ15間(約27m)で幅3間(約5m半)。正徳3年に桜田御本(将軍家宣の蔵書)を収蔵するため「御屏風蔵」を改修したが、これは13間(約24m)に3間だった。文政11年に毛利高標(たかすえ)の旧蔵書約二万冊が献上されたため、これを収める御蔵が増築された。この御蔵は2間に4間半だった。御蔵は白壁の土蔵で瓦葺き。内部は二階建てで上下階に窓があり畳敷きだった。

Q6

書庫や蔵書の状態を良好に保つために、特にどのような点に配慮していたのか、教えて下さい。

回答

御書物(紅葉山文庫の蔵書)はそれぞれ本箱や長持に収めて大切に保存されていた。『本朝通鑑』(ほんちょうつがん)の献上本(全310冊)などは、20冊ずつ漆塗りの小箱に収めたのち、桐の長持に入れ、さらにその長持を杉の長持に入れていたほどだ。

虫干しも御書物方(紅葉山文庫の図書は将軍の蔵書や幕府の貴重な記録類だったから、当時は書物ではなく「御書物」と呼ばれ、同様に書物方も「御書物方」と呼ばれていた)の重要な仕事である。毎年だいたい6月初旬から8月下旬にかけ虫干しが行われた。御蔵の周囲には常緑樹の大木が茂り湿気が抜けにくかったこともあり、本の虫やカビを防ぐための虫干しは欠かせない年中行事だった。この期間に御書物の冊数や、保存状態の点検も行われ、破損した本箱や図書は修復された。

虫干しは「風干」「土用干」「虫干」などと呼ばれていたが、寛政8年以降は、虫干しの期間にかぎらず、一年を通して御蔵の出入り口や窓を開いて風を入れる「風入」が行われるようになった。また御蔵の屋根に掛かった木の枝を落とすのも、夏の慣例となっていた。御書物の保存のために湿気を恐れたのだ。

このほか台風や地震後のチェックも欠かせなかった。御蔵内にひび割れや雨漏りを発見すると、小普請方(こぶしんかた)に修復を願い出た。放置しておくと御蔵ひいては御書物が傷んでしまうからだ。

Q7

防火対策は?

回答

毎年冬は火災が多いので、11月から翌年の4月、5月まで、御蔵の窓を土で目塗(めぬり)し、火災が起きても火が御蔵内に入らないようにしていた。

Q8

本箱に入れる除虫剤は、やはり樟脳(しょうのう)ですか

回答

主に樟脳を用いたが、蔵書数は毎年増加し、おのずと本箱の数が増え、本箱に入れる樟脳の量も増える。ところが緊縮財政のため御書物方は経費削減を迫られた。このため甲斐国(現在の山梨県)から虫除け効果があるとされる「龍陀草」(りゅうだ草 漢名は耆婆草)を取り寄せて併用したこともあった。

寛政3年から書物同心も御書物の修復をするようになったが、これも修復を御書物師の出雲寺(幕府御用達の本屋)等に外注するより経費を抑えられると考えたからだろう。修復作業に従事した同心たちにはそれぞれ褒美の金が下されたが、その一方で彼らの出勤日数や勤務時間も増加した。

Q9

将軍の蔵書や幕府の貴重な記録類を保存する紅葉山文庫でも、経費節減を求められたのですか。

回答

樟脳だけでなく業務に必要な紙や筆まで、事細かく節約を迫られた。詳細は御書物方の日誌『御書物方日記』に克明に記録されている。『御書物方日記』(展示資料52)には、御書物や諸記録の出納や修復、「風干」「風入」の記事だけでなく、奉行や同心の人事記録や健康状態さらには住居、家族のことまで記されている。その意味でも貴重な歴史資料といえるだろう。

Q10

歴代の書物奉行は90名に上りますが、特に功績が大きかったのはどなたでしょうか。

回答

吉宗公(8代将軍徳川吉宗)の命を受けて中国や日本の法制等を研究した深見有隣(ふかみありちか)、やはり吉宗公の命で各地に残る古文書を調査した青木昆陽(あおきこんよう)、天文方を兼任し地図の作成や翻訳等に功績があった高橋景保(たかはしかげやす)など、歴代の御書物奉行の中には、学術の分野で大きな足跡を残した人がすくなくない。

しかし書物奉行としての功績の大きさといえば、近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)を第一に挙げるべきだろう。

Q11

どのような理由で?

回答

近藤重蔵は、和漢の御書物を精力的に研究して紅葉山御文庫の蔵書の来歴を明らかにしたばかりでなく、研究によって得られた豊富な知識をもとに貴重書を鑑別し、その保存の仕方や取扱いを改善した。すなわち紅葉山御文庫の貴重書が今日なお良好な状態で保存されているのは、近藤の功績に負うところが大きい。

主な参考文献:福井保『江戸幕府の参考図書館 紅葉山文庫』(1980年刊 郷学舎)

書物奉行

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