12 北丹後地震

 活動する可能性があると推定される断層である「活断層」という用語がわが国で初めて用いられたのは、昭和2年(1927)に発生した北丹後地震の時でした。この地震では、「郷村ごうむら断層」と「山田断層」が地表に現れました。この時の地震の観測記録や断層の表出は、その後の地震学の発展を推進させる契機となりました。
 北丹後地震は、昭和2年3月7日午後6時27分に京都府北部の丹後地方で発生したM7.3の直下型地震でした。その被害は、北近畿地方を中心に中国・四国地方までに及びましたが、最も被害が著しかったのは丹後地方で、家屋倒壊による生き埋め、火災により多くの犠牲者を出しました。峰山町(現京丹後市)では、住宅・織物工場などの家屋の90%以上が倒壊・焼失し、家を失った人々はまだ積雪の残る屋外で避難生活を送ることとなりました。
 被害状況が新聞などで報道されるに従い、被災者支援のキャンペーンや募金活動が急速に広がりました。復興後、義援金の一部は丹後震災記念館(現京丹後市)の建設に充てられました。また、復興計画も急速に進められ、峰山町の中心である網野区では区域の約9割が全壊焼失したため、区画整理事業を中心とする復興が進められました。資料は、東北帝国大学理学部教授中村左衛門太郎が著した『奥丹後地震報告』です。

奥丹後地震報告
請求番号:ヨ051-0040
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