あの日の公文書 4月5日 ヘアカットの日 文明開化と「女性らしさ」

 「ヘアカットの日」は、明治5年(1872)4月5日に、東京府が女性はみだりに髪を切ってはいけないという「女子断髪禁止令」(東京府達32号)を出したことにちなんでいます。

婦人断髪ノ儀ニ付伺
公文録に収められた「婦人断髪ノ儀ニ付伺」。東京府から太政官に府達の許可を求めた文書。男女の区別が判然としないような髪型を禁止すべきという旨が記載されている。

 男性の断髪は、明治維新直後から急速に進んでいました。明治4年(1871)には、明治政府が太政官布告により「散髪、制服、略服、礼服ノ外、脱刀モ自今勝手タルベシ」という「散髪脱刀令」を布告しています。髷(まげ)を結わず散髪してよい、士族でも帯刀しなくてもよいという"勝手令"はすなわち、江戸時代には身分ごとに決められていた髪型や服装の自由を認めたものでした。男性の断髪・洋服姿は文明開化のシンボルとなりました。

散髪制服略服脱刀共勝手ニ任ス
太政類典に収められた「散髪制服略服脱刀共勝手ニ任ス」。明治4年8月9日に布告された。

 この「散髪脱刀令」布告により、男性に続いて断髪する女性たちが現れましたが、世論は女性が髪を短く切ることに対して猛反発。翌年には「女子断髪禁止令」が布告されました。「長い黒髪こそ女性らしい姿」という価値観が日本人に浸透していたのです。
 当時、日本髪の結髪には、松やにと胡麻油の蝋に香料を混ぜた鬢付け油が使われていました。そのため洗髪の際には、多量の油や付着した汚れを取り去るのに半日かかったそうです。明治18年(1885)に結成された「婦人束髪会」などが、女性の金銭的負担や衛生面への懸念を訴えたことから、しだいに日本髪は姿を消してゆきました。

髪型を変えることは、今では私たちの楽しみの一つになっている。
髪型を変えることは、今では私たちの楽しみの一つになっている。

【参考文献】
「黒髪と清潔:明治中期~大正にかけての婦人衛生雑誌から読み解く黒髪の変遷」(横山友子著、『大阪府立大学大学院 人間社会学研究集録第11巻』所収)、ポーラ文化研究所webページ