21.明治天皇の大喪

明治45年(1912)7月30日、明治天皇の崩御を宮内省が発表しました。崩御当日、宮内省侍従職(じじゅうしょく)の日誌には「洵(まこと)ニ恐懼(きょうく)ノ至ニ堪ヘス」と記されるなど、側近部局ならではの緊迫した様子が伝わってきます。

時を移さず、天皇が朝政に臨まれない廃朝が5日間と決定しました。朱罫紙に宮内大臣渡辺千秋(ちあき)の署名・朱印のある奏請書には、天皇による裁可を指す「可」の朱印が押印されているのが見えます。続く8月6日には大喪儀(たいそうぎ)の期日・陵所が決定します。こちらは朱罫紙に宮内大臣渡辺千秋の署名・黒印のある奏請書に「可」の黒印が捺されています。両文書の様式が異なるのは、御服喪の期間中は黒色の印肉・罫紙を用いることと7月30日に決定していたためでした。つまり、後者は同日の決定前に立案されたものであったために罫紙のみが朱色であったと推測できます。

さらに、伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)の陵名を決定した文書は8月7日立案であったことから、黒罫紙に宮内大臣渡辺千秋の署名・黒印がある奏請書に、「可」の黒印が押されています。このように文書様式の変化のみを辿って見ても、明治から大正への時代の転換を感じとることが出来ます。

さて、明治天皇の崩御後、大正元年(1912)9月13日から15日の斂葬(れんそう)の儀を中心として、一連の大喪の諸儀が行われました。一切の大喪事務は、崩御当日の7月30日宮中に置かれた内閣の組織「大喪使」が司っていました。9月13日、葬場殿の儀が東京青山練兵場で行われた後、霊柩は列車で京都南部の伏見桃山陵に運ばれ、9月15日に奉葬されました。この一連の様子は当時の新聞・雑誌や出版物の他、大喪使で作成された公文書や写真帖といった様々な形態のものから窺い知ることができます。大喪使作成の文書等は国立公文書館や宮内公文書館で所蔵されています。

宮内公文書館には他にも大喪使から制作を委嘱された原在泉(はらざいせん)の絵巻物があります。原在泉は京都画壇で原派の流れを汲む代表的な絵師で、京都府画学校教授等を歴任し、明治20年の皇居造営時には杉戸絵を手がけています。展示資料は伏見桃山陵へ至る鹵簿(ろぼ・葬列)のうち葱華輦(そうかれん)の部分です。原自らによる伏見桃山での実見に支えられて写実的に描写しながらも、鮮やかな色彩、柔らかな線描など、大和絵の世界が余すところなく表現されています。

明治天皇崩御関係書類

  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 明治天皇崩御関係書類1
  • 明治天皇崩御関係書類2
  • 明治天皇崩御関係書類3
  • 明治天皇崩御関係書類4
  • 明治天皇崩御関係書類5
  • 明治天皇崩御関係書類6
  • 明治天皇崩御関係書類7
  • 明治天皇崩御関係書類8

明治天皇大喪儀絵巻物

  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 明治天皇大喪儀絵巻物1
  • 明治天皇大喪儀絵巻物2
  • 明治天皇大喪儀絵巻物3
  • 明治天皇大喪儀絵巻物4
  • 明治天皇大喪儀絵巻物5
  • 前へ
  • ページ上部へ戻る