第4章 日本とベトナム:旧友との新しいパートナーシップ

交流のはじまり

 1973年1月、アメリカなど四当事者の間でベトナム戦争終結と平和回復に関する協定(ベトナム和平パリ協定)が締結され、続いて3月にはアメリカ軍が南ベトナムから全面撤退しました。このような状況変化を受けて、同年7月から、日本とベトナム民主共和国(後のベトナム社会主義共和国)の間で、国交正常化のための交渉がパリで始まりました。2か月後の1973年9月、パリのベトナム民主共和国総代表部において、両国代表が外交関係設立の交換公文に署名しました。
 これを受けて、翌10月、在フランス日本大使館からベトナム総代表部に対して、ハノイにおける日本大使館の開設の申し入れを行ったところ、北ベトナムから、「未解決問題解決のため」の交渉をまず行うべきとの要請がありました。これ以降、日本政府とベトナム社会主義共和国政府は、ベトナムの隣国ラオスの首都ビエンチャンにおいて、2年間に及ぶ長い交渉を始めることとなります。

1  日本・ベトナム民主共和国間外交関係の設立のための交換書簡

 1973年9月21日、パリのベトナム民主共和国総代表部にて、日本国政府とベトナム民主共和国の代表が外交関係樹立に係る交換公文(原文フランス語)に署名しました。ここに紹介するのは、日本外務省が所蔵するベトナム側の書簡です。その邦訳は『外交青書』18号によれば、次のとおりです。
 書簡をもって啓上いたします。本使は,本日付けの閣下の次の書簡を受領したことを確認する光栄を有します。
「(日本側書簡)
 書簡をもって啓上いたします。本使は,日本国とベトナム民主共和国との間の友好関係の発展を希望しつつ,両国間に外交関係が本日より設定され,両国が大使の資格を有する外交使節を交換することを日本国政府に代わって提案する光栄を有します。
 本使は,さらに,この書簡及び前記の提案を受諾される閣下の返簡が両政府間の合意を構成するものとみなすことを提案する光栄を有します。
 本使は,以上を申し進めるに際し,ここに閣下に向かって敬意を表します。 」
 本使は,さらに,ベトナム民主共和国政府に代わって前記の提案を受諾するとともに閣下の書簡及びこの返簡が両政府間の合意を構成するものとみなすことに同意する光栄を有します。
 本使は,以上を申し進めるに際し,ここに閣下に向かつて敬意を表します。
1973年9月21日にパリで
フランス国駐在ベトナム民主共和国臨時代理大使
ボー・バン・スン
外務省

2  日越外交関係設立交換書簡署名

 ここに紹介する写真は、日越外交関係樹立のための交換公文に両国の代表者が署名した際に撮影されたものです。左端の署名者が中山賀博駐仏大使(肩書きは当時のもの、以下も同じ)、1人置いて中央に着席しているのが今川幸雄在フランス日本大使館二等書記官、右側の4名はベトナムの関係者たち、そのうち署名している人物がボー・バン・スン駐フランスベトナム民主共和国臨時代理大使です。
 写真の提供者である今川幸雄氏は、その後、初代駐ベトナム民主共和国臨時代理大使、駐カンボジア大使などを歴任しました。また、ベトナム側署名者のスン氏は、その後、駐日大使を務めています。
今川幸雄氏

3  日本・ベトナム民主共和国間外交関係の設立のための共同声明

 資料2の交換公文がパリで署名された1973年9月21日に、日本国政府とベトナム民主共和国政府は、外交関係樹立に係る共同声明を発表しました。ここに紹介するのは、フランス語で書かれた声明で、署名者は中山賀博駐仏大使と思われるものです。その邦訳は『外交青書』18号によれば、次のとおりです。
 日本国政府及びベトナム民主共和国政府は、両国間の関係の発展を希望して,両国間に外交関係を設定し、特命全権大使の資格を有する外交使節を交換することを決定した。
1973年9月21日 東京
外務省

4  ヴィエトナム民主共和国の経済の復興と発展のための贈与に関する
   日本国政府とヴィエトナム民主共和国政府との間の書簡の交換に関する
   閣議請議かくぎせいぎについて

 ビエンチャン交渉で話し合われた「未解決問題」とは、主として、ベトナム民主共和国(北ベトナム)に対する日本の「無償経済協力問題」でした。さかのぼること約15年前の1959年5月に、日本政府は、サンフランシスコ平和条約に基づき、当時外交関係のあったベトナム共和国(南ベトナム)政府との間で、140億4000万円の戦争賠償協定に調印していました。このことから、北ベトナム政府は、戦争賠償に代わる無償経済協力の基準として、「少なくとも南ベトナムに対する賠償額の3倍以上でなければならない」と主張します。20回以上にわたる公式・非公式の会談の後、1975年10月6日、日本からの無償経済協力135億円で合意に至りました。
 ここに紹介するのは、その無償経済協力(贈与)の交換公文に関する閣議請議の本文(10月7日付)と添付資料の一部です。閣議請議とは、内閣による意思決定が必要な事項に関して、担当大臣が首相に対して閣議に諮るよう提議することを意味します。閣議を経てそれが承認されれば、「閣議決定」となります。本件は、外務大臣によって請議されましたが、それに先立って大蔵省、通商産業省、農林省、経済企画庁といった関係省庁と協議済みであることが、本文の欄外にメモ書きされています。交換公文への署名は、菅沼潔すがぬま きよし駐ラオス特命全権大使に委任されました。
 ここに紹介しているのは、閣議請議の対象となる「閣議決定(案)」と「説明資料」です。これ以外に、交換公文案(フランス語原文と邦訳)が別紙として添付されています。
外務省外交史料館

2013-1392

5  ヴィエトナム民主共和国の経済の復興と発展のための贈与に関する
   日本国政府とヴィエトナム民主共和国政府との間の交換公文

 日本政府とベトナム民主共和国政府の間で交わされた、経済の復興と発展のための贈与に関する交換公文です。1975年10月11日、日本側の菅沼潔駐ラオス特命全権大使、ベトナム側のホアン・バン・ティエン外務次官がハノイで署名しました。公文には、日本がベトナム民主共和国に対して、(135億円の無償経済協力のうち)まず85億円を限度とする額の贈与を行うこと、本贈与は農地開墾や公共土木事業に必要な重機などの購入に充てられること、日本国民が運営する法人からの購入に限られることなどが記されています。
 ここに紹介する資料は、ベトナム側が署名して日本側に手交した文書で、日本の外務省に保管されているものです。あわせて、前掲の閣議請議に付属文書として添付されていた日本側書簡の邦訳文を、参考用としてここに紹介します。
外務省

6  駐日本ベトナム特命全権大使任命にかかる決定

 1973年1月のベトナム戦争の終結に関するパリ和平条約への署名は、日越関係に新たな段階をもたらしました。同年9月21日の外交関係樹立に関する共同声明の発表後、1975年には日本とベトナムはそれぞれ、大使館を公式に開設することとなります。1976年4月29日、ベトナム民主共和国国会常務委員会は、グエン・ザップを初代在日本特命全権大使に任命する決定(決定番号:120/NQ/QH/K5)を発しました。
 ここに紹介する資料は、ベトナム国会常務委員会に保管されていたものが、ベトナム国家記録アーカイブズ局所管の国立第3アーカイブズ・センターに移管されたものです。
国立第3アーカイブズ・センター

QH2175/64

7  在ベトナム日本国大使館設置に伴うベトナム国駐箚ちゅうさつ発令

 2年に及ぶビエンチャン交渉の合意事項を明記し、署名されたプロセ・ベルバル(議事録)には、(1)無償経済協力85億円に関する交換公文への署名を行うこと、(2)残額50億円についての協議はハノイに日本大使館が開設されてからとすること、(3)1975年10月11日に在ベトナム日本大使館の開設に同意することが記されています。このように、大使館開設は、無償経済協力と同時に合意されました。この後、ハノイに今川幸雄臨時代理大使が赴任して、大使館立ち上げのための業務を開始します。
 そして、1976年1月30日の閣議で、長谷川孝昭 在ホノルル総領事が初代の駐ベトナム特命全権大使に任命されました。ここに紹介する資料は、長谷川大使に対して実際にベトナムに赴任することを命じた1976年7月8日付の閣議文書です。冒頭の頁には各大臣の承認を示す花押が押されており、最終頁には長谷川氏の略歴が記されています。
 なお、1954年7月のジュネーブ協定以降ベトナムは事実上南北に分断されていましたが、ベトナム戦争が終了した翌年の1976年7月に国土統一が実現し、国号を今日のベトナム社会主義共和国に改めました。
国立公文書館

平6総00005100

国レベルの開発援助

 日本政府は1975~1976年度の戦争賠償に代わる無償資金協力(贈与)に続いて、1978年度にはベトナム社会主義共和国に対する最初の円借款を供与しました。その後、支援が中断された時期もありましたが、1991年10月にカンボジア和平に関するパリ協定が締結されると、その翌年の1992年11月には円借款の再開を決定、それ以降、日本は現在に至るまで、ベトナムにとって最大の政府開発援助(ODA)提供国となっています。
 その間に、両国の関係も順調に進展してきました。2003年12月にはベトナムの投資環境改善を目的とした「日越共同イニシアティブ」を開始、2006年10月には両国政府間の共同声明「アジアの平和と繁栄のための戦略的パートナーシップに向けて」を採択、2008年12月には二国間の経済連携協定(EPA:Economic Partnership Agreement)を締結しました。さらに、2014年3月には、両国関係を「アジアの平和と繁栄のための広範な戦略的パートナーシップ」へと格上げすることに合意し、政治、経済、安全保障、文化、人的交流といった幅広い分野で、ますます緊密に連携しています。
 ここでは、1978年の日本政府による最初の円借款の記録と、1990年代の日本の資金供与に基づく様々なプロジェクトを紹介します。

1  円借款の供与に関する日本国政府とヴィエトナム社会主義共和国政府
   との間の書簡の交換に関する閣議請議について

 前述のとおり、日本政府は1978年度にベトナム政府に対して、初めて円借款の実施を決定しました。ここに紹介するのは、この案件に関する閣議請議文書の本文と説明資料です。
 上掲の無償経済協力(贈与)に係る交換公文と同じく、外務省によって請議されましたが、それに先立って大蔵省、通商産業省、農林省といった関係省庁と協議済みであることが、本文の欄外にメモ書きされています。
 添付された「説明資料」によれば、この借款はベトナムの国際収支改善に協力するため、100億円を上限として、両国政府の関係当局間で合意する生産物の購入及びそれに付随する役務のために使用される、ただし生産物の購入先は我が国に限定されず、合意するその他の諸国からも購入し得ることされています。
外務省外交史料館

2013-1349

2  円借款の供与に関する日本国政府とヴィエトナム社会主義共和国政府
   との間の交換公文

 本資料は、日本政府がベトナム社会主義共和国政府に対して供与した最初の円借款に関する1978年7月7日付け交換公文のうち、ベトナム側の外務次官が署名した書簡(原文英語)です。日本の外務省が所蔵するものです。
 あわせて、前掲の閣議請議に付属文書として添付されていた日本側書簡の邦訳文を、参考用として、ここに紹介します。
外務省

3  日本政府のODAによる中部ベトナム電信ネットワーク開発プロジェクト
   に関する首相決定

 電信システムは経済的インフラとして重要な要素であるだけでなく、ひとつの主要な経済セクターを構成しています。そのため、ベトナムにおける国土の工業化、近代化のプロセスにおいて、農村地域の電信システムの改善は喫緊の課題となっています。
 農村地域の電信システム開発に向けての目標を実現させるため、ベトナム社会主義国副首相ゴー・スアン・リックは、日本の1997年度政府開発援助(ODA)による中部ベトナム農村地域の電信ネットワーク開発プロジェクトを承認する決定(決定番号:447/QĐ-TTg)に署名しました。
 このプロジェクトは、経済的再建、生産拡大、貧困緩和や人々の知的水準の向上に大いに貢献し、かくして農村部と都市部の格差の是正や地方政府と中央政府の間の通信の確保に役立っています。
 この記録は、もともとベトナム首相官房で保管されていましたが、現在はベトナム国家記録アーカイブズ局傘下の国立第3アーカイブズ・センターに移管されています。
国立第3アーカイブズ・センター
VPCP4107/01-03

4  日本政策金融公庫によるハイバン・トンネル建設プロジェクト
   に関する首相決定

 ハイバン峠は、中部ベトナムの主要都市フエとダナン間の国道1号線上にあり、また中部ベトナムと隣接のラオスやタイを結びつける(大メコン圏)「東西回廊」における重要な交通路となっています。しかしながら、その困難な地形のため、この区間は同国道における最も危険な箇所となっていました。
 同区間の移動時間の短縮と安全な交通の確保、及び社会経済的発展のため、1998年9月30日、ゴー・スアン・リック副首相により、主に日本政策金融公庫(OECF)からの借款を活用して実施するハイバン・トンネル建設プロジェクトを承認する決定(決定番号:905/QD-TTg)が署名されました。4ページにわたる決定文書には、プロジェクトの実施地点、建設の規模、設計仕様、プロジェクトの実施期間などが記載されています。
 この決定文書はもともと首相官房にありましたが、現在ではベトナム首相官房、ベトナム国家記録アーカイブズ局傘下の国立第3アーカイブズ・センターに移管されています。
国立第3アーカイブズ・センター
VPCP4304/01-02

5  日本国際協力銀行融資による紅河橋建設プロジェクトに関する
   首相決定

 2000年代初頭まで、紅河ホンハを越えて、首都ハノイと南北に隣接する諸省とを、国道1号線ならびに5号線を通じて結ぶ橋梁は、三つしかありませんでした。交通渋滞を緩和し、ハノイ地区の社会経済的発展を促進するため、1999年11月26日、ベトナム運輸省の提案に基づき、ファン・バン・カイ首相は、日本国際協力銀行(JBIC)の融資を用いる、紅河架橋(すなわちタインチ橋)及びハノイ環状3号線の南部区間の建設プロジェクトに対する資金投入を承認する決定(決定番号:1106/QD-TTg)に署名しました。
 これに伴い、紅河に架かるタインチ橋の建設と同橋梁から国道5号線までを結ぶ道路区間の建設、総計12.4kmの工事が実施されることになりました。同橋梁は2007年2月に開通し、現在、紅河に架かるハノイ地区の7基の橋の中で最長のものとなっています。
 本決定文書は、もともとベトナム首相官房が保管していましたが、今ではベトナム国家記録アーカイブズ局傘下の国立第3アーカイブズ・センターに移管されています。
国立第3アーカイブズ・センター
VPCP4956/01-03

トップレベル交流

 1993年にボー・バン・キエット氏がベトナム社会主義共和国の首相として初めて日本を訪問、さらに翌1994年には村山富市首相が日本の首相として初めてベトナムの首都ハノイを訪問しました。以来、両国要人の相互訪問が年中行事化して、今日に至っています。
 ここでは、両国のトップレベル交流の様子を、主に写真で紹介します。

1  宮沢喜一首相/キエット・ベトナム首相の訪日
   (歴代総理大臣特別資料より)

 1993年3月、ベトナム社会主義共和国首相として初めてボー・バン・キエット首相が訪日しました。宮沢喜一首相は、これを「日越新時代の幕開け」として歓迎し、1986年以降ベトナムで着手されていた「ドイモイ(刷新)政策」(計画経済から市場経済への移行、および対外開放の推進)を高く評価、支援を表明しました。この時、日本側からは、経済協力のための調査団の派遣と、大型円借款の供与の考えが伝えられ、キエット首相からは、ドイモイ政策の継続に対する強い意欲が表明されました。
 ここに紹介するのは、3月25日に実施された首脳会談の開始にあたって握手する宮沢喜一首相とキエット首相の写真で、「歴代総理大臣特別資料」に所収されています。「歴代総理大臣特別資料」は、内閣官房内閣広報室で保管されていた、1968年(佐藤栄作首相時代)から2000年(小渕恵三首相時代)までの広報写真資料です。
国立公文書館

平21内閣90019100

2  村山富市首相/アセアン歴訪(歴代総理大臣特別資料より)

 1994年8月23日から29日の日程で、村山富市首相が東南アジア4か国を歴訪しました。その中で最も着目されたのが、日本の総理大臣として初めてベトナム社会主義共和国を訪問したことでした。ベトナムは翌1995年からASEAN(東南アジア諸国連合)に加盟することが事実上決まっており、また米国との国交正常化についても期待が高まっていました。
 村山首相はボー・バン・キエット首相との会談において、ベトナムの道路、港湾、鉄道などの産業基盤整備に寄与するための77億円にのぼる新規無償資金援助や、両国間の政治・安全保障環境に係る意見交換の場として外務次官級協議の新設を提起し、両国が同意しました。また、「日本・インドシナ友情計画」として、1995年からの5年間に、カンボジア、ラオス、ベトナムから750名の青年を日本に招待することを表明し、うち500名をベトナムから受け入れることとなりました。
 ここに紹介する写真は、歓迎式典で村山首相とホスト役のキエット首相が儀伏兵を閲兵している写真です。
国立公文書館

平21内閣90024100

3  村山富市首相によるベトナム訪問

 写真は、1994年8月に日本の村山富市首相がベトナムを公式訪問した際に、ベトナム通信社のミン・ダオ記者が撮影したものです。
 写真は、8月25日、国家主席官邸にて、ベトナム社会主義共和国のボー・バン・キエット首相(左)が村山首相(右)を歓迎している様子を撮影したものです。村山首相は、日本とベトナムが外交関係を樹立した1973年以降、ベトナムを公式訪問した最初の首相です。この訪問によって、両国関係は新たな段階を迎えました。
ベトナム通信社

M94.2649

4  ベトナム共産党書記長ド・ムオイ氏の日本訪問

 写真は、1995年4月にベトナム共産党のド・ムオイ書記長が日本を公式訪問した際に、ベトナム通信社のスアン・ラム記者が撮影したものです。
 1995年4月、村山富市首相の招待により、ド・ムオイ書記長が日本を訪問しました。ベトナム共産党書記長としては初めての日本訪問で、日越の友好関係にとって意義ある発展を示すものとなりました。
 紹介する写真は、1995年4月18日、迎賓館にて村山首相がド・ムオイ共産党書記長を歓迎する式典を撮影したものです。
ベトナム通信社

M95.1879

5  村山富市首相/ド・ムオイ・ヴェトナム書記長来日
   (歴代総理大臣特別資料より)

 1995年4月17日から21日まで、ベトナムの最高実力者として初めて、ド・ムオイ共産党書記長が訪日しました。前年の1994年8月に村山首相が訪越した際に来日を招請し、ベトナム側が受諾したことによって実現しました。日本滞在中に、天皇陛下との会談も行われました。村山首相とド・ムオイ書記長は首脳会談の後、五十嵐広三官房長官とグエン・マイン・カム外相との間で、総額580億円を上限とする円借款供与に関する書簡が交換されるのに立ち会いました。
 ここに紹介するのは、首相官邸で歓迎晩さん会が開催された際のスナップ写真です。招待者の一人である俳優・小林綾子さんは、当時ベトナムのテレビで放映されて人気を博していたNHKのドラマ「おしん」で主役を演じました。
国立公文書館

平21内閣90023100

6  小渕恵三首相/ヴェトナム公式訪問(歴代総理大臣特別資料より)

 アジア通貨危機(1997~1998)が続く中、1998年12月15日~16日にASEAN関連首脳会議がベトナムの首都ハノイで開催されました。日本からは小渕恵三首相が訪越して、ASEAN+3(日本、中国、韓国)首脳会議に参加しました。ファン・バン・カイ・ベトナム首相が議長を務めたこの会議で、日本政府は通貨危機で打撃を受けた東アジア諸国に対する支援強化などを盛り込んだ小渕イニシアティブを発表しました。
 ASEAN関連首脳会議出席後の17日、小渕首相はハノイ滞在をベトナム公式訪問に切り替えて、ファン・バン・カイ首相などベトナム側要人と会談し、二国間関係の拡大などについて話し合いました。そして、同日午後には、南北統一後のホーチミン市(旧サイゴン)を日本の総理大臣として初めて訪問して、18日に帰国しました。
 ここに紹介するのは、ホーチミン市でチョーライ病院を視察した際の写真で、やはり歴代総理大臣特別資料に収められています。同病院は、日本の援助により建設・整備されたベトナム南部最大の国立病院です。
国立公文書館

平21内閣90028100

7  小渕恵三元首相に対する友誼勲章授与にかかる国家主席決定

 小渕恵三氏は、首相として、また日越友好議員連盟の会長、日越文化交流協会の会長などとして、日越関係の発展に大きな貢献を果たしました。2000年5月14日に急逝した小渕元首相の業績に対して、その数週間後の6月2日、チャン・ドゥック・ルオン国家主席は、友誼勲章を追贈する決定に署名しました(決定番号:215KT/CTN)。
 この決定文書は、現在国立第3アーカイブズ・センターに保存されています。
国立第3アーカイブズ・センター

CTN3315/01

8  チュオン・タン・サン国家主席による日本訪問

 ここに紹介する写真は、2014年3月16日~19日にチュオン・タン・サン国家主席夫妻が日本を訪問した際に、ベトナム通信社のグエン・カーン記者によって撮影されたものです。
 訪問の際、チュオン・タン・サン国家主席は、3月18日に安倍晋三首相と会談し、二国間関係を新たな段階へと引き上げることで合意しました。会談後に両首脳は「アジアの平和と繁栄のための広範な戦略的パートナーシップ樹立に関する日越共同声明」を発表しました。
ベトナム通信社

CD14.2088

9  安倍晋三首相によるベトナム訪問

 写真は、2017年1月16日~17日にグエン・スアン・フック首相の招待により、安倍晋三首相がベトナムを訪問した際に、ベトナム通信社の記者チュオン・ドゥック記者によって撮影されたものです。
 1月16日に、グエン・ティ・キム・ガン国民議会議長と安倍首相が会談し、二国間協力を今後ますます深化、拡大させていくことで合意しました。
ベトナム通信社

CD17.0619
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