第3章 近・現代の交流

東遊運動

 19世紀に入り、ヨーロッパ列強によるアジア進出が本格化するなか、ベトナムもフランスによって植民地化されます。苛烈なフランスの支配に対してベトナム国内で民族運動が高まるなか、指導者のひとりファン・ボイ・チャウ(潘佩珠、1867~1940)は、アジアで唯一近代化に成功した日本に着目し、援助を求めて来日しました(1905)。彼が面談した梁啓超りょう けいちょうや犬養毅、大隈重信らから、武装蜂起よりも人材養成が急務であるとの助言を得たファンは、独立運動を担う人材確保のため、ベトナム青年に日本留学を呼びかける運動を開始しました。これを東遊運動(1905~1909)と呼び、最盛期には200名前後の留学生が日本で学びました。
 ファンたちは当初、日本を「同文同種」(同じ文字を使い、同じアジア人種である)の国として信頼していましたが、1907年に日仏協約が締結された頃から、日本の真意を疑い始めました。事実、1909年には、フランス当局の要請を受けて日本政府が在日ベトナム人たちへの取締りを強め、東遊運動が最終的に終わりを迎えました。
 その後、ファンは中国で革命活動を継続しますが、1925年に上海でフランスの官憲に拉致されベトナムに護送されました。この間に、グエン・アイ・クオク(後のホー・チ・ミン、1890~1969)が登場してベトナムの革命運動は、新たな段階に入ります。

1  越南亡国史えつなんぼうこくし

 ファン・ボイ・チャウが梁啓超の勧めで執筆したとされる本です。
 1904年、ベトナムを密出国して中国経由で日本に到着したファンは、横浜で中国の政治家・梁啓超と面談します。梁啓超は、日清戦争に敗北した清国で、皇帝の強い支持を得て政治改革を主導していた人物の一人ですが、保守派のクーデターによって失脚し、日本に亡命していました。
 面談を通じて、フランス植民地支配下のベトナムの窮状を知った梁は、ファンに本として発表するよう勧めました。本書は梁啓超の著作を複数出版している上海の廣智書局から刊行されており、出版にあたって梁が援助したことがうかがえます。
 本書は、ベトナムがフランスの支配を受けた原因、祖国のために犠牲となったベトナム人志士たちの小伝、19種に及ぶ重税などフランスによる過酷な支配の実情などを詳述し、ベトナムの将来のため決起することを国民に呼びかけています。巻末には、ベトナムの歴史を描いた「越南小志」も収録されました。
 ここでは、表紙や梁啓超の序文、奥書もあわせて紹介します。
国立公文書館

ヨ223-0014

2  東遊を呼びかけるファン・ボイ・チャウの手紙

 紹介する資料は、20世紀初頭に執筆されたファン・ボイ・チャウの手紙です。ベトナムの過去の栄光を振り返ると同時に、フランスの植民地支配における屈辱的かつ苦難に満ちた状況を描いています。ファンはまた、ベトナムと日本には類似点があるにもかかわらず、なぜ一方の日本のみが主権を維持し繁栄を享受できたのかについて論じています。その上で、ファンはベトナム青年たちに対して、国としての自由を追求するため、日本留学すること、また国内の同胞に対して、農業・産業・商業組合を設立して、留学青年たちを資金的に支援することを呼びかけています。
 この記録は、現在、社会科学アカデミー傘下の漢喃研究所(ハノイ)に保存されています。
漢喃研究所(ハノイ)

VHB251

互いへの関心

 19世紀の激動の時代、外国についての情報収集は欠かせませんでした。日本では250年の長きにわたった鎖国政策が終わりをつげ、欧米諸国だけでなく、近隣の東アジア地域にも目を向けはじめます。明治維新以降の新たな状況のなかで、欧米列強の進出に対してアジアの連帯を主張するアジア主義的関心や、植民地主義的関心、学術的関心などの様々な動機から、日本ではベトナムに関連する著作が徐々に刊行されていきます。ベトナムでもまた、東遊運動に見られるような日本への関心の高まりのもと、日本の情報を入手していました。ここでは、そうした互いの国に対する関心を示す記録を紹介します。

1  大越史記全書だいえつしきぜんしょ

 『大越史記全書』は、漢文で書かれた編年体のベトナム歴史書です。もともとは、前期レー朝(1428~1527)の第5代聖宗(在位1460~1497)の命を受けた呉士連(生没年不詳)たちが、国のはじまりから黎朝が創設される前年の1427年までを記す正史として編纂しました。後に、17世紀後半までの黎朝の歴史を記した続編が付け加えられました。
 本書は長くベトナム国外に出ることのない稀覯書でしたが、1883年、陸軍参謀本部の将校だった引田利章が、ベトナムに赴任した際にハノイの役人から入手したものを、帰国後の1884年に覆刻、刊行しました。以後、ベトナム国外では引田本が広く普及することとなります。
 ここでは、引田による序文と、順天元年(1010)の記述を紹介します。前年に李朝を創始した李公薀リ・コン・ウアン李太祖リ・タイト)が、翌1010年に都を大羅城に移そうとした際、河をわたる船の傍らに黄龍が現れたことから、都の名前を「昇竜タンロン」としました。この地が、現在のベトナムの首都・ハノイです。
国立公文書館

286-0189

2  枢密院による「東京法律高等学場」教本に関する報告

 本記録は、ベトナム国家記録アーカイブズ局の所管する国立第1アーカイブズ・センターが保存している、グエン朝の資料の一部です。この資料群は、13代の皇帝が続いた阮朝期のうち、1802年から1945年の11代にわたる、85,000件の文書を収めた773巻の記録集から構成されています。
 紹介する記録は、竹紙(Giấy dó、プーナー紙)に書かれています。この紙は、ベトナムの伝統的な工芸村において、ドーと呼ばれる竹(プーナー)から手作りで制作される特殊な紙です。皇帝の記録は、書記たちによって墨筆で草稿がしたためられます。そのような書記たちは、文才と達筆であることを試されて登用された人々です。
 阮朝硃本は、ベトナムに現存する皇帝による自筆を含む唯一の資料であり、また国土におけるあらゆる問題について皇帝が仔細に校閲した文書として世界でも稀なもののひとつであります。歴史の流れにおけるベトナムの政治的、経済的、文化的、社会的システムや人々などを、全体的に研究し再現できる原資料として大変価値のあるものです。
 ここで紹介する資料は、啓定帝2年(1917)11月10日付(旧暦)のベトナム枢密院による報告で、仏印総督から提供された「日本帝国東京法律高等学場」教本の中国語訳を、皇帝に上覧したことが記されています。(「東京法律高等学場」に該当する、当時の日本の教育機関については不明)
国立第1アーカイブズ・センター

KĐ03/172

第二次大戦後の非公式・民間交流

 第二次世界大戦終了後、連合軍の占領下に置かれた日本は、1951年9月調印のサンフランシスコ講和条約が翌52年4月に発効したことによって、主権国家として国際舞台に復帰しました。他方、ベトナムでは1945年9月にホー・チ・ミンが独立を宣言しましたが、植民地支配の復活を狙うフランスとの間で1946年末から第一次インドシナ戦争が始まりました。1954年7月のジュネーブ協定で戦争が終結したものの、ベトナムの国土は暫定的に南北に分断されました。
 1954年以降1973年に至るまで、日本と北ベトナム(ベトナム民主共和国、現在のベトナム社会主義共和国)の間には、政府間の正式な外交関係がありませんでしたが、早くも1955年3月には日本ベトナム友好協会が、8月には日越貿易会が設立され、またベトナムでは越日友好協会が1965年に設立されるなど、非公式交流が徐々に盛んになっていきました。
 ここでは、これらの民間における交流の記録などを紹介します。

1  無煙炭の輸入について

 この資料は、経済安定本部生産局が1947年11月13日に作成した無煙炭の輸入についての報告です。経済安定本部は終戦後の経済復興と安定を図るために、内閣総理大臣を総裁として、1946年8月に発足しました。「戦後行政史上最も強力な経済官庁」と呼ばれた機関です(1952年7月廃止)。
 資料に見える「仏印無煙炭」とは、トンキン湾沿岸にある港湾都市ホンゲイにある炭鉱から採掘される良質の無煙炭(炭素含有量が90%以上の石炭)を指します。「ホンゲイ炭」は、ベトナムがフランスの植民地統治下にあった時代から日本に輸入され、練炭や各種の工業用原料として幅広く利用されてきました。経済安定本部が作成した「昭和23年度計画」の説明資料によると、第二次世界大戦直後の日本では、食糧増産の観点から、肥料供給の確保が重要課題となっていました。
 ここに紹介する資料は、農業用肥料としての石灰窒素を製造する過程で用いられるエネルギー源として、国産コークスと「仏印無煙炭」を比較検討したものです。電力の供給が不足する状況の中で、より効率的な後者の輸入を希望すると結論づけています。第二次大戦直後から日本政府がベトナムとの貿易やホンゲイ炭の輸入に関心を寄せていたことが、本資料からうかがわれます。日本と北ベトナムの間で民間貿易が本格化するのは1950年代半ば以降のことですが、ホンゲイ炭は一貫して主要な輸入品の一つであり続けました。
国立公文書館

平17内府00117100

2  貿易省共産党支部による報告

 紹介する報告は、1962年から1964年の越日交易関係を分析するために、貿易省内に設置されたベトナム共産党委員会により作成されたものです。4ページにわたるレポートは1964年3月19日付で署名され、共産党中央委員会及び党の連絡委員会に送付されました。本資料はもともと、国家計画委員会で保存されていましたが、現在はベトナム国家記録アーカイブズ局傘下の国立第3アーカイブズ・センターで保存されています。
 1961年から1963年の日越貿易売上高に関する統計の他、日本企業との貿易状況、戦略的輸出商品、特に石炭(売上高の主要生産品)についての詳細な評価が記載されています。本報告は、日本政府が社会主義国に対する貿易を拡大するのに伴って、日本との貿易関係が将来的にどうなるのかの見通しについても分析しています。
国立第3アーカイブズ・センター

UBKHNN17203/01-04

3  ベトナム-日本友好協会の設立にかかる内務省決定

 紹介する資料は、1965年6月4日、越日友好協会設立についての内務省決定にかかわるものです。もともとはベトナム首相官邸に保管されていましたが、現在はベトナム国家記録アーカイブズ局傘下の国立第3アーカイブズ・センターで保存しています。
 1955年に日本で日越貿易会及び日本ベトナム友好協会が設立され、両国間の非公式な関係一般、特に貿易関係の促進に貢献し、またベトナム反戦運動を展開しました。この事実に鑑み、内務省によってベトナム-日本友好協会の設立が決定されました(決定番号:207-VN)。同協会は、両国の文化、経済、科学、技術、教育など様々な分野の交流を促進するにあたり、常に重要な役割を果たしています。
国立第3アーカイブズ・センター

PTT14652/15

4  杉良太郎氏に対する友誼勲章の授与に関する国家主席決定

 歌手で俳優の杉良太郎氏は、日越文化交流に積極的な貢献を果たしたことに対して、ベトナム社会主義共和国国家主席より、外国人に授与される最高位の勲章である友誼ゆうぎ勲章を授与されました(日本人初の授賞)。本決定は、1992年11月19日、グエン・ティ・ビン国家副主席によって署名されました。その記録は現在、国立第3アーカイブズ・センターで保管されています。
 勲章授与にかかる賞状と授賞式の写真は、杉氏の事務所、株式会社 杉友より提供されたものです。授賞式はハノイ市民劇場で行われ、グエン・コァ・ディエム文化情報省大臣(当時)により手交されました。
 杉氏はかつて日越文化交流協会の理事長をつとめており、また外国人ではじめて、ベトナム政府から日越交流にかかる特別大使に任命されています。日本外務省も、2005年から2008年まで日ベトナム親善大使、2008年以降は、日ベトナム特別大使を委嘱しています。
国立第3アーカイブズ・センター

CTN931/10

友誼勲章賞状(データ転載禁止)

友誼勲章授与式での杉氏
(データ転載禁止)
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