• 国立公文書館トップへ明治宰相列伝トップへ
  • 年表資料一覧

国立公文書館明治宰相列伝

トップ > 西園寺公望

西園寺公望

 第12代、第14代内閣総理大臣。右大臣徳大寺公純の子。兄は徳大寺実則(1839〜1918、明治天皇の侍従長、のち、内大臣を兼務)
  嘉永5(1852)年、鎌倉時代以来の名門、西園寺家をつぐ。慶応3(1867)年、王政復古に際し、参与に任じられ、鳥羽伏見の戦いには主戦論を唱えて岩倉具視らに注目されました。山陰道鎮撫総督、越後口征討大参謀などとして活躍し、越後府知事となりましたが、勉学のため官を辞し、明治3(1870)年フランスに留学しました。
 明治13(1880)年の帰朝の後、民権派の新聞「東洋自由新聞」を発刊、社長となり、勅命により、その職を辞します。明治15(1882)年伊藤博文の憲法取調に従い渡欧し、伊藤に認められました。その後、オーストリア公使、ドイツ公使を歴任。明治27(1894)年には、第2次伊藤内閣の文相として初入閣。明治36(1903)年には、伊藤の枢密院入りの後を受けて、政友会総裁。原敬(1856〜1921、首相などを歴任)にその座を譲るまで、10年間務めました。
 明治39(1906)年組閣し、鉄道国有化等の施策を実施しました。明治44(1911)年8月には再度組閣しましたが、大正元(1912)年には、2個師団増設問題で陸軍と対立し、12月総辞職しました。
 大正8(1919)年、パリ講和会議首席全権として、ベルサイユ条約の締結に臨んでいます。また、最後の元老として、大正デモクラシーや政党政治の時代の政界に君臨しました。昭和15(1940)年死去。

関連資料

西園寺公望写真