昭和20年10月4日、連合国最高司令官マッカ−サ−は、東久邇内閣の近衛文麿国務大臣に、憲法改正を示唆しました。近衛は、東久邇内閣退陣後、10月11日に内大臣府御用掛を命ぜられ、同じく御用掛となった佐々木惣一元京都帝国大学教授とともに、宮中の機関である内大臣府の仕事として憲法改正案の準備に着手します。
また、10月11日に幣原喜重郎内閣総理大臣と会見したマッカ−サ−は、憲法の自由主義化について触れ、婦人の地位の向上、労働組合の助長、学校教育の自由主義化、民衆生活に脅威を与えたような制度の廃止及び経済機構の民主主義化の5項目の改革を速やかに行うことを求めました。
ここに政府は、内大臣府とは別に憲法調査を始めることとなり、10月25日に松本烝治国務大臣を主任とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置します。憲法問題調査委員会は、7回の総会と15回の調査会・小委員会を開催、翌昭和21年2月2日の総会まで憲法問題の検討を行いました。
松本委員長は、10月27日に行われた第1回総会で、調査委員会の使命について「憲法改正案を直ちに作成するということでは無く」と述べていましたが、11月10日の第2回総会では「日本を廻る内外の情勢は誠に切実である。政治的に何事も無しには済まし得ない様に思われる」、「憲法改正問題が極めて近き将来に於て具体化せらるることも当然予想しなければならぬ」と述べ、委員会は調査・研究から改正案の提示へ向けて方向転換してゆきます。