09 関東大震災Cー帝都復興計画ー

 復興計画については、地震発生直後から後藤新平内務大臣が立案に着手していました。東京市長を務めた経験のある後藤は都市計画に強い関心を持っており、震災を都市改造実現の絶好の機会と捉え、新たに震災復興に取り組む機関の設置を唱え、約30億円の復興計画を提唱しました。
 9月12日には「帝都復興ニ関スル詔書しょうしょ」が発布されました。詔書では、「東京ハ帝国ノ首都ニシテ政治経済ノ枢軸」とし、「特殊ノ機関ヲ設定シテ帝都復興ノコトヲ審議調査」することが示されました。同月19日には帝都復興について「審議調査」を行う帝都復興審議会の、27日には内務大臣が総裁を兼務し内閣に直属して東京・横浜の都市計画と市街地建築物法の事務を行う帝都復興院の官制がそれぞれ公布され、復興計画のための体制が整えられました。
 その後、帝都復興院は、焼失区域以外を含んだ地域を計画範囲とし、主要幹線道路、公園及び広場の設定、中央市場及びその他の市場設定、上下水道の改定、運河、橋梁、河川の改修及び新設などを行う帝都復興計画大綱を決定しました。予算規模を13億円としたこの計画は、大蔵省との折衝などにより、計画を焼失区域に限定するなどして7億円ほどにまで圧縮された後、閣議決定されました。さらに帝都復興審議会でも枢密顧問官伊東巳代治みよじなどからの反対にあい、京浜運河の建設を外すなど、さらに事業計画が縮小されました。結局、帝国議会において1億円ほど予算を削減され、事務費も失った帝都復興院は翌年2月に廃止されることとなりました。こうして帝都復興計画は当初の見込みから大幅に縮小された後、内務省復興局のもとで進められ、幹線補助線街路、区画整理区域などが大正14年3月までに順次決定されました。資料は、震災後、内務省復興局により作成された東京市街の道路計画図です。

大東京都市計画道路網図
請求番号:雑03251100
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