08 関東大震災Bー救護活動と防災への動きー

 東京市の被災者は、市民の6割にあたる約150万人と言われています。震災直後から軍隊や警察は所在地周辺で救護や消防活動にあたりましたが、電話や電信などの通信が遮断されたため組織的な活動に至るまでには時間を要しました。公的機関による対策が機能するまでの間に被災者を支えたのは、被災者達の自助努力や町内会、青年団、在郷軍人会などの活動でした。
 被災者のためのバラックは、東京では、警察や市によって上野公園、日比谷公園などに設けられましたが、被災者の数に対して著しく不足したため、富豪の邸宅内や焼け跡にも民間によって建設されました。救護活動は、軍隊や警察によって展開されたほか、日本赤十字社や恩賜財団済生会さいせいかいなどによる救護班が派遣され、無料診療などが行われました。この他、被災地以外から来援した救護団や支援活動、義援ぎえん金、援助物資輸送なども大きな力となりました。
 臨時救護事務局における「バラック建設状況報告」からは、バラックが建設されたものの建材不足等で震災から20日を経ても不足していることがわかります。
 また、震災後、都市や経済、産業の復興とともに震災被害の原因を追究し、被害を防ごうとする取組が行われました。震災により煉瓦造の崩壊や鉄筋コンクリート建物の半壊が相次いだことから、耐震建築への関心が高まり、大正13(1924)年には市街地建築物法施行令が改正され、初めて耐震基準が規定されました。また、従来の統計と地震計測重視の地震研究では地震予測が十分でなかったことなどの反省から、地球物理学などによる地震学の基礎的研究と予知及び災害防止研究を進める目的で、大正14年に、それまでの震災予防調査会を発展的に解消して、東京帝国大学地震研究所(現東京大学地震研究所)が設置されました。資料は、同年11月13日に地震研究所の官制が公布された際の文書です。

バラック建設状況報告
請求番号:雑03031100

東京帝国大学地震研究所官制の公布(大正14 年11 月14 日)
請求番号:類01526100
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