明治3(1870)年11月、黒田は、開拓方法の調査のため、欧米視察の命を受けました。
最初に訪問したアメリカでは、グラント大統領(1822〜1885、大統領在職1869〜1877)に会い、ケプロン農務局長(1804〜1885、日本滞在期間3年10ヶ月)の招聘に成功し、朝野を驚かせます。明治4(1871)年5月、黒田の帰国とともに、ケプロンは来日しました。黒田は、ケプロンの構想を基に、北海道開拓政策を進めます。
すなわち、アメリカ開拓を模範として、小麦と牧畜を農業の主体としたほか、開拓を担う人材育成のため札幌農学校(現在の北海道大学農学部)を設立するとともに、新天地に相応する女子教育を創出すべく、開拓使の予算で津田梅子(1864〜1929、女子教育の先駆者)、山川捨松(1860〜1919、のちの大山巌夫人)ら女子留学生をアメリカに派遣します。