桂内閣は、朝鮮、満州の権益をめぐり、伊藤が主張したロシアと妥協すべきであるとの意見(満韓交換、日露協商論)を退け、当時、ロシアの東アジア進出に脅威を抱いていたイギリスと同盟する方策を選びます。
明治35(1902)年1月、日英協約は締結されます。同年2月、「日英協約(日英同盟)」締結に関し、枢密院に対し事後報告を行います。この資料は、桂首相及び小村外相(1855〜1911)による説明資料です。
日露戦争に至るプロセスにおいて、桂首相は伊藤、山県らと会合を重ねます。明治36(1903)年4月の無鄰菴(京都の山県の別荘)における日露交渉の基本方針の決定は重要です。