松方は、明治14年政変後、参議兼大蔵卿に就任。大隈に代わり、財政政策の中心人物となり、西南戦争後の苦しい財政状況のなか、のちに松方財政と呼ばれる紙幣整理や中央銀行設立などの諸施策を実施します。
内閣制度発足時には、大蔵大臣。また、明治24(1891)年5月には、内閣総理大臣兼大蔵大臣として、第1次松方内閣が発足しました。しかしながら、首相に就任後、わずか6日目に、ロシア皇太子が訪日中、京都、大津の回遊途上、警護にあたっていた巡査津田三蔵が皇太子に傷を負わせるという事件が発生しました。この資料は、事件が発生した旨を知らせる電報などです。
このとき、政府はロシアとの関係悪化を恐れ、死刑判決を司法当局に要求しましたが、大審院長児島惟謙(1837〜1908)はこれを退け、その主導の下で、無期徒刑としています。(いわゆる日本の「司法権の独立」を確立した事件でもあります。)