浮かび上がる躍動の時代 平成30年秋の特別展「躍動する明治 -近代日本の幕開け-」

9月22日から開催される平成30年秋の特別展「躍動する明治」。様々な資料から、時代の潮流に乗って躍動する日本の様子が見えてきます。ここでは、その時代の一面が垣間見える展示資料について、展示監修者のお二人に語っていただきました。

守られることのなかった「約束の書」

 今回の企画展では、「岩倉使節団の派遣」に関する展示も行われています。岩倉使節団の目的は、大きく二つ挙げることができます。一つは、不平等条約の改正に向けた予備交渉。もう一つは、欧米各国の国家制度や産業技術を視察することでした。
 使節団の出発日が目前に迫ると、岩倉をはじめとする使節の首脳たちは、留守を預かる政府高官(留守政府)との間に十二項目からなる約定を定めました。それが、『大臣参議及各省卿大輔約定書』です。
 その内容は、「国内外の重要案件は使節と本国とが相互に報告し、月二回の通信を怠らないこと」「国内の新規の改革や官僚の増員をしないこと」など。つまり、留守中に大規模な改革を行わないよう釘を刺す内容でした。
 一方で、「廃藩置県の処置は内地政務の純一に帰せしむべき基なれば、条理を逐て順次其実効を挙げ、改正の地歩をなさしむべし」として、廃藩置県の後始末については速やかに行うように指示されていました。廃藩置県という大変革の後、政治と財政が平常化する時間を稼ぐための工夫でした。
 しかし実際には、留守政府は学制の公布、徴兵令の発令、太陽暦の採用、司法制度の整備などの改革を相次いで行いました。そして、西郷隆盛の遣韓問題を巡って留守政府と岩倉使節団の対立が激化。ついに「明治六年政変」に至るのです。つまりこの約定書は「守られることのなかった約束の書」というわけです。

右の第六款では、使節団の帰国まで国内の改革に着手しない旨、左の第七款では、廃藩置県の処理を進める旨が記載されている。


日墨修好通商条約
 「日墨修好通商条約」は、明治21年(1888)に日本とメキシコの間で締結されました。日本にとって初めての「領事裁判が無く、関税自主権のある」対等条約です。この条約締結後、明治24年(1891)には日墨両国が公使を交換。相互に内地開放を承認しました。欧米諸国からなお条約改正を認められていなかった日本は、日墨条約を先例として、欧米の譲歩を促そうとしたのです。ただし、この条約には「機密特別条款」が付されており、「日本政府は、メキシコ人民に認めた内地開放を、理由を問わずいつでも廃止することができる」と記されています。欧米諸国が条約改正に協力しないまま、日墨条約を先例として内地開放を強要するという、最悪の事態を避けるためでした。このように大胆かつ細心な外交を展開した日本でしたが、欧米の壁は厚く、条約改正交渉の妥結にはなお数年の歳月が必要でした。

あの歴史的名セリフを公文書で探してみると…

 「板垣死すとも自由は死せず」
 板垣退助が襲撃された際に発したとされるこの言葉は、自由民権運動を象徴するセリフとして多くの人に知られています。しかし、板垣は本当にこう言ったのでしょうか? 刃物で切られた人がとっさにそう叫べるでしょうか? その疑問に答える公文書が、今回の企画展でも展示されている「岐阜県上申自由党綜理板垣退助遭害ノ件」です。
 当時、岐阜県御嵩(みたけ)警察署御用掛であった岡本都嶼吉は、板垣一行の動静をまとめた「探偵上申書」を署長に提出しています。この中に、襲撃され倒れた板垣が左顔面から出血しながら、「吾死スルトモ自由ハ死セン」と語ったとの記述が確認できます。また、別の供覧文書の中にも板垣の動向が記述されています。その中には、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由ハ永世不滅ナルベキ」と笑った、と記されています。当時の政府当局にとって板垣ら自由党の活動は好ましいものでなく、警察官は絶えず監視を行っていました。板垣は当局にとっての〝要注意人物〟であり、警察官が彼の言葉を美化するとは考えづらい。つまり、この公文書に記された言葉は真実と考えられます。死に直面して自分の信念を簡潔に表現できたことは、政治家として高い資質を備えていた証拠でしょう。
 これらの言葉が語り継がれる中で、しだいに「板垣死すとも自由は死せず」という、私たちがよく知る表現となって定着していったのでしょう。

右から5、6行目にかけて、出血しながら言葉を発したことが記載されている。


福島県稟告奸民暴挙ノ件
 明治15( 1882)年、福島県令三島通庸の会津三方道路建設計画強行を巡り、喜多方警察署での衝突を契機に2,000人余りが検挙されました。これは、同年12月に、そうした人々を煽動した自由民権運動の中心と目された県会議長河野広中を逮捕した三島から内務卿山田顕義に提出された報告書です。
 この資料を読むと、「自由民権の理想を掲げ、中央政局を大きく変えようとした河野」対「現実を見据えて地域振興策を強行した三島」という、歴史上の通説を裏付ける二人の対立関係が見えてきます。しかし、三島は福島県令以前の山形県令時代には、果樹生産振興により、県民から高く評価された人物でした。1980年代以降の研究によって、河野と三島は「欧米列強に伍する日本をつくりたい」という思いを共有していたという見解も可能かと考えられます。

大日本帝国憲法こぼれ話

事実上アジア初の近代憲法とされる大日本帝国憲法。憲法の内容から離れて見ると、また違った特色が見えてきます。秋の特別展でも展示する大日本帝国憲法に隠された、知られざるエピソードをご紹介します。


大日本帝国憲法

明治22年(1889)2月11日に発布、翌年11月29日に施行された。プロイセン憲法を模範とし、伊藤博文らを中心に起草され、天皇が「臣民しんみん」に与える「欽定きんてい憲法」という体裁をとった。

御璽のルーツは伊勢神宮に