大黒屋光太夫の漂流記録 ②

光太夫一行のカムチャッカ、イルクーツクへの移動と体験

36 北槎聞略

請求番号185-0579
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 天明7年(1787)8月2日、光太夫らはカムチャッカに到着します。翌天明8年初冬、深刻な飢饉に見舞われました。この飢饉により与惣松よそまつ・勘太郎・藤蔵が病死しました。光太夫は日本では見られない病と述べています。「北槎聞略」の著者桂川甫周は、「チンカ」(壊血病)という病気であると推測しています。
 翌寛政元年(1789)2月9日に一行はイルクーツクへ到着。庄蔵は元々「湿毒」(梅毒か)により足が悪かったようですが、寒さによりさらに悪化し、イルクーツクで、片足の膝より下を切断する手術を受けることになりました。庄蔵は片足を無くした状態ではとても帰国できないと言い、ロシア正教の洗礼を受け帰化し、ロシアへ留まる決断を下します。
 一方、光太夫らは帰国願を出しますが、総督府から、帰国は思い留まり、この国で仕官せよとの通知が到来します。しかし帰国を諦めきれない光太夫らは再び帰国願を出しますが、やはり帰国は認められませんでした。